約束の日まであっという間だった。Closedの札が掛けられたお店の前で空を見上げる。午前10時。いつもよりゆっくり眠れたからか、念入りに保湿をしたからか、乾燥する寒い日でも普段よりずっと化粧乗りが良い気がした。
髪型とか服装とか、おかしいところはないよねと改めて確認しながら昼神さんを待つ。
息を長く吐き出すと、目の前の路肩に止まったのは一台のコンパクトミニバン。深い海底を思わせるような色合いに一瞬、目を惹かれる。
運転席から出てきた昼神さんは私を見つめて微笑んだ。
「おはよう、名字さん」
「昼神さん、おはようございます!」
「ごめん、寒い中待たせちゃいましたね」
「いえいえ。さっきまでお店の中にいたので」
コートは脱いで車の中に置いてきているだろう昼神さんのほうが、外に出てきた今、私よりもずっと寒そうに思えた。
わざわざ外に出てきてくれた昼神さんへ慌てて手に持っていたテイクアウト用のコーヒーを手渡す。
「すみません、私が用意できるのってやっぱりこれしかなくて」
苦笑しながら言う。昼神さんはスリーブのついたそれを受け取り「温かい」と呟くように紡いだ。
「あ、助手席。乗ってください」
「じゃあ、えっと、お邪魔します」
促されて助手席のドアを開ける。
昼神さんとはそれなりに親しくなったけれど、それでもこういうのはやっぱり緊張する。平常心、平常心。と心の中で唱え、シートベルトを締めた。
「ナビ、ここで合ってますか?」
「あっはい、そこで大丈夫です」
朝10時にお店の前で待ち合わせをしたのは、お昼ご飯を食べる前に私の買い物に付き合ってもらう為だった。郊外にコーヒー器具を扱う業者の本社があり、そこでは豊富な種類のコーヒー器具を手に入れることが出来る。
いつもは時間のある時に1人で行くけれど、そういう場所があるのだと昼神さんに言うとぜひ行ってみたいと言うので今回、一緒に行くことになったのだ。その住所をナビに入力した昼神さんが私に確認を求めて、私は我を取り戻すように返事をした。
「じゃあ出発しますね」
「お願いします」
ハンドルを握り、ウィンカーを出して車が動く。いよいよ今日という日が始まるのだ。
「寒かったら膝掛けも用意しておいたんで言ってください」
「ありがとうございます」
日曜日ということもあっていつもよりも車通りが多いけれど、それでも市内をスムーズに進むことが出来ている。
バイパス手前の赤信号で止まり、ドリンクホルダーに置いていたコーヒーに手を伸ばした昼神さんが言った。
「あ、美味しい」
それがつい口に出てしまったものなのか、私に伝えるために言った言葉なのかはわからなかったけれど、なんとなく落ち着かない気持ちをどうにかするために私も同じようにコーヒーを飲む。
少しだけ温くなったコーヒーが喉を通り、香りが鼻を抜ける。
「やっぱり名字さんが淹れたコーヒーが一番美味しいなって思います、俺」
再び動き出した車。昼神さんは前を向いたまま、私を見ることはない。
私とは対照的に昼神さんは落ち着いている。それがちょっと悔しいなと思うけど、その横顔を見ているともう仕方がないかなとも思うようになってきた。
だってこういうのは久しぶりだし、昼神さんはなんだかいつもに増して格好良い気がするし。バレーの試合を観に行くのも、私の買い物に付き合ってもらうのも初めてだし。
普段の私達とは全然違うんだから、緊張なんてしないほうがおかしい。だからむしろこの緊張こそが正常なのだ。
緊張に白旗を振って観念すると、何故か急に気持ちが楽になる。
「実は、今日のコーヒーは特別にハワイコナ100%で淹れたんです」
「えっそれって高級な豆ですよね?」
昼神さんは少し驚いた顔をする。
「はい。特別な日なのでここはやっぱり高級な豆で淹れないと、と思って」
「特別な日ですか」
「気合いばっちりです」
「なんか俺、嬉しいです」
「嬉しい?」
「はい。自分だけじゃなくて名字さんも楽しみにしてくれてたのがわかって」
はにかむように笑う昼神さんの横顔を、私は何も言えず見つめるままだ。窓の外の景色が過ぎ去ってゆくのを感じながら私は気が付いた。
ああ、そっか。これは緊張だけじゃない。心が弾んでいるんだ。
昼神さんの車に乗せてもらうこと。一緒に遠出すること。いろんなことを話せること。でも、それだけじゃない。同じ空間で、同じ時間を感じながら、同じコーヒーを飲む。それがきっと、私の心を躍らせている。
いつもは私がコーヒーを淹れ、受け取った昼神さんが背中を向ける。でも今日は違う。それが無性に嬉しいのだ。
「名字さん」
前を見つめたまま、昼神さんが私の名前を呼ぶ。
「はい」
「今日、楽しい一日にしましょうね」
「はい!」
そう。今日は始まったばかり。
(21.07.22)