具合が悪いのを悟られる話


 朝起きた時に喉が痛かったけれどまさかこんな事になるとは思わなかった。午後から寒気を感じるようになって、夕方には体温計を用いずとも微熱だろうなと確信した。終業時間までは残り1時間。ダルいし寒いけれどあと1時間なら耐えられる。
 とりあえずマスクをしてブランケットを膝に掛けながら大人しくキーボードを叩くものの、こういう時の1時間は驚くほど長く感じられる。だけど幸い明日は土曜日。残業は出来ないから週明けに仕事を持ち越すことになってしまうけれどこの1時間さえ耐えれば良いだけ。

「ちょっと競技普及事業部行ってきます」
「あ、だったら黒尾さんにメール見たかどうか確認してもらえる? 週明けまでに返事ほしいやつ連絡ないんだよね」
「わかりました」

 そういえば競技普及事業部に行かなければいけない用事があるんだったと思い出したから、体調が悪いことを悟られないように普段通りを装って競技普及事業部へ向かった。
 多少辛くてもデスクでパソコン作業をしているよりはこっちのほうが時間の流れが早く感じるなと考えていると競技普及事業部に辿り着いたのでまずは自分自身の用事を済ませる。
 そして黒尾のデスクに黒尾がいることを確認して、横からそっと声をかけた。

「黒尾、今いい?」
「おー、どうした?」
「伝言預かってて」

 同僚から預かった言付けをそのまま伝え、これでやる事は全部終わったと踵を返そうとした矢先。

「ちょっと待った」

 黒尾が私を呼び止めた。

「なんか調子悪そうだな。体調悪い?」
「……なんでわかったの?」
「普段より元気ねぇから」

 いつも通りのつもりだったんだけど、と悟られたことに驚いてすぐには返事が出来ない。

「……その、午後からちょっとだけ熱っぽくて」
「風邪?」
「多分」
「今日、定時で帰れんの?」
「あ、うん、一応。今抱えてるの週明けでも大丈夫なやつだから」

 同僚には悟られなかったのに、こんなあっさり見破られてしまうなんて。黒尾は私をじっと見つめたあと、ため息混じりに言った。

「家まで送ってやろうか? 途中で倒れたらやべぇだろ」
「や、さすがに途中で倒れはしないよ」

 いくらなんでもそこまでしてもらうのは気が引ける。ほんとかよ、と言いたげな双眸が心配の色を混ぜたまま私を見つめている。

「子供じゃないんだし本当に大丈夫だって」
「ヤバそうなら言えよ」
「うん。ありがと」

 定時まであと30分だし本当に大丈夫だと出来るだけ爽やかそうに見える笑顔を作ってみたけれど、マスクをしていたから黒尾には何も伝わらなかったかもしれない。
 じゃあ、と競技普及事業部を後にし、自分のデスクに戻ると無意識に長い溜息を吐いていた。動いて人と話したから疲れが蓄積されたのかもしれない。意外と弱っている自分に驚いて、本当に途中で倒れたら黒尾に怒られるかもしれないなとぼんやりとした頭で考えた。
 それでもなんとか残りの数十分をやり過ごして、ようやくやってきた退勤時間に歓喜しながら退社しようとした時「名字」と、今度は黒尾が私の元へやってきた。

「おつかれ。大丈夫そうか?」
「うん。なんとか。定時過ぎたし今日はもう帰るね」
「気をつけて帰れよ。あと、これ」

 そう言って黒尾はコンビニのビニール袋を差し出す。

「途中でどっか寄るのもしんどいだろうと思って色々買っといた」

 受け取った袋の中には私の体調を考慮したと思われる品々。食べ物から日用品に至るまでのラインナップに驚きと感動が生まれる。

「もしかしてわざわざ買ってきてくれたの?」
「すぐそのコンビニだけどな」
「ありがとう、助かる」
「休み中になんかあったら呼べよ」
「なんか黒尾、私の彼氏みた……いや違うな……お母さん……? あ、お父さんか」

 父ちゃんかよ、と黒尾が笑う。

「まあ名字が元気ないとこっちの調子も狂うもんでね。さっさと治していつも通りに出勤してちょうだいよ」

 柔らかい顔つきに一瞬だけ心臓が跳ねた。だってこんなに心配してもらえてるなんて正直思わなかったし。でも黒尾に心揺らされたという事は体温はもう38度くらいにはなっているかもしれない。

「……熱のせいで黒尾がかっこよく見える前に帰る」

 半ば強引に会話を切り上げバッグを手に取った。
 ふらふらなのかふわふわなのか分からない感覚のまま少し重たいビニール袋を持って帰路に着くのは、だけど、全然辛くはなかった。

(23.11.29)
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