仕事帰りの満員電車の話


 久しぶりの定時上がりにウキウキしながら会社を後にすると、最寄り駅がいつもより人で溢れている事に気付いた。
 何かあったのかなと思いながらも改札前まで足を進めた時、目に入ったのは「遅延」の二文字。
 ああ、なるほど。そう言う事ね。
 理解すると同時に駅員さんの「運転再開は未定です」と声が聞こえて立ちすくむ。
 うわ、これからどうしようって頭を抱えながら。

「あー、遅延か」
「え、黒尾?」

 そんな折、背後からの声。
 驚きながら振り向くと、私の真後ろに黒尾が立っていた。人ごみに埋もれそうになっている私とは対照的に、周りよりも頭一つ分飛び抜けた身長の黒尾はどこか余裕そうだ。

「黒尾も今帰り?」
「一応な」
「あれ? でも黒尾、今日は代休日って言ってなかった?」
「休出した」
「社畜だ……」

 あっけらかんとした様子で言われる。
 最近は日本バレーが世間からの関心を得ているからか、競技普及事業部の忙しさは他の部署の比ではない。この前も世界中に出張へ行っていたし、もしかすると黒尾個人が忙しいのかもしれないけれど、代休中に休出するとか意味がわからなさすぎてそのうち黒尾が倒れるんじゃないかとすら思ってしまう。

「名字、帰れんの?」
「今のところ帰れなさそう。遠回りになるけど路線変えるかおとなしく待つか迷ってる。黒尾は遅延してる路線じゃないもんね?」
「まあな。名字がどっかで時間潰すなら付き合うけど」
「え、だめだめ。黒尾は一刻も早く家に帰ってゆっくりしたほうがいいよ。まじでそのうち倒れるよ」
「倒れたら名字に受け止めてもらうわ」
「無理。共倒れする」
「即答かい」

 現実的に受け止める事は無理だろうけれど、今日はまだ月曜日だし平日は始まったばかりだから私だって一刻も早く家に帰りたい。
 これまでの経験則的にこの感じは遠回りの方が結果的に早く部屋に辿り着ける気がする。
 これは賭けだ。悩んだけど、覚悟を決めて黒尾を見上げた。

「私も早く帰りたいから、遠回りしようかな。運転再開するまで時間かかりそうだし」


「やっぱり考えることは皆同じだからかすげぇ混んでんな。名前、平気?」
「うん。なんとか」
「押し潰されんなよ」
「その時は押し返す」
「なんで好戦的なの」

 乗り込んだ電車は、駅構内と同じくらい人で溢れていた。
 鮨詰め状態の中、だけど、ドアを背にした私の前に黒尾が立っているおかげでそれほど窮屈ではなかった。
 見上げると視線の先にある黒尾の喉仏。しっかりと浮き上がった胸鎖乳突筋が仕事終わりの黒尾の色気を増長させていて、ちょっと目のやり場に困る。
 相手が私じゃなかったらあんな展開やこんな展開になるのかもしれないけれど、私と黒尾じゃ何も起きない確信がある。でもこんな満員電車でスマートに位置取りが出来るのだから、こういうシチュエーションは慣れているのかな。
 そういえば黒尾とは学生時代の話はそこそこしてきたけれど、過去の恋愛についてはあまり話したことなかったなと考えていると、視線に気づいた黒尾が私を見た。

「ん? なに?」
「や、黒尾ってモテるだろうなって」
「今更ですか」
「うわ、否定しない」
「もしかして見惚れちゃった?」

 ニヤリ、と悪戯な笑み。あんな展開やこんな展開にならないと黒尾も分かっているからこそ、こういう言い方をするのだろう。

「はいはい。見惚れた見惚れ――わっ」
「おっと」
「ご、ごめん」

 そんな時、突然大きく車体が動いたせいで足元のバランスを崩してしまう。

「次の駅で人減るはずだからあと少しの辛抱な」
「う、ん」

 再びよろけてしまわないようにと黒尾は私を支えてくれたまま、結局、私が受け止められる側になってしまった。

「逆なら共倒れだったな」
「本当、私が倒れる側で良かったよ」
 
 言いながら、もし私と黒尾が逆の立場だったらを想像してみる。
 駅で立ちすくむ黒尾を見つけて、声をかけて、一緒に帰ることになって――と、そこまで想像をめぐらせてみてふと気付いた。

「ていうか、さっき、駅の中たくさん人がいたのによく私のこと見つけられたね?」
「だろ?」

 そこで一度言葉を区切った黒尾は、またニヤリと笑って続けた。

「まあ、なんつーか、名字の事はどこに居ても見つけられそうな気がすんだよね」

 黒尾のこういうところが狡いと思うから、私も負けじと普段通りに返答をするのだ。
 
「なにそれ私の事めっちゃ好きじゃん」
「そりゃ唯一の同期ですから」

 あんな展開やこんな展開にはならないし、部屋にたどり着くのはいつもより遅くなってしまうけれど、たまにはこういう月曜日も悪くないかもしれない。
 揺られながら、そんな事を考えていた。

(24.4.20)
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