黒尾の家に泊まる話
「とりあえず着替え用意しておくからシャワーお先にどーぞ」
「……ありがとう」
「服脱いだら洗濯機入れてそのままボタン押していいから。乾燥終わるまで3時間くらいな」
「う、うん」
窓を打ち付ける雨。地面を強く叩く音が聞こえるほどの勢いはいまだ止む様子を見せない。
黒尾の部屋に突如お邪魔する事になった上にお風呂まで借りる事になるなんて、さっきまでは想像すらしていなかった。ここまでの豪雨になることも地下鉄が浸水することも全部想定外で、戸惑いと緊張が絶え間なく私を襲う。
濡れた服を脱ぎ、シャワーを浴びながら私はいつ自宅へ帰る事が出来るのだろうかと考える。雨脚が少しでも弱まればいいんだけど。さすがにこうなるとわかっていたなら今日の夜ご飯はリスケしたのに。
「いや、今のはずるい。待ってもう一回」
「いやいやもう一回のが狡いでしょうよ」
「じゃあもう一戦!」
「はいはい」
だけどそんな戸惑いも束の間、お風呂をあがった私は黒尾とボードゲームに興じていた。緊張を紛らわすにはちょうど良いかと気軽な気持ちで始めたのは良いものの、思いのほか熱中してしまって二人で熱い戦いを繰り広げ続けている。
このボードゲームのおかげでこの家に足を踏み入れたばかりの緊張のことなんてすっかり忘れてしまったし、こんなに面白いゲームがこの世にあると知ることが出来たのだからやっぱり今日の予定をリスケしなくて良かった。そんな風に考えを改めてしまったのだから、ボードゲーム、侮りがたし。
「つか、雨止んできたな」
「ほんとだ」
いつの間にか外の音は落ち着きを取り戻していた。壁にかけられた時計を確認してようやく想定よりも時間が経っていた事に気付く。
「え、もうこんな時間? 長居してごめん。楽しくて夢中になりすぎた。服ももう乾いてるはずだし帰るよ」
「いや俺も集中してて時間のこと忘れたてたわ。つか帰るって言っても終電ないよな?」
「…………ないね」
「まじで悪い」
「や、黒尾は悪くないでしょ。でもどうしようかな……タクシーよりもホテル泊まる方が安いかもしれないし、近隣のホテル調べてみる」
深夜料金も加味するとタクシー利用は1万円を超えるはず。明日は休みだから急いで帰る理由もないし、ビジネスホテルや24時間営業のスパに泊まるほうが案外安上がりになるかもしれない。
「なあ」
「うん?」
「このまま泊まる?」
突然の提案に私の思考と指先が止まる。
とまる。止まる。留まる。……泊まる?
「いや、こんな遅くに一人で帰らせるのも気が引けるっつーか。泊まる場所探すのも大変だろうし」
「あ、え、いや、でも」
「手を出すつもりもないんで、そこんとこはご安心を」
「ん゛ん゛ん゛」
「どっから声出してんの? ……まあ無理にってわけじゃないから候補のひとつってことで」
異性の友達。それはどこまでのことが許される関係なのだろう。黒尾が私に手を出すなんて微塵も考えていなかったけれど、可能性が0というわけでもないのも事実なのだろう。
「……黒尾は迷惑じゃないの?」
「迷惑なら提案しないだろ」
どうしようかな。金銭面だけを考えると泊まらせてもらうのはありがたいけれど、すんなり受け入れるのもちょっとどうかと思うし。ああでも、大人の男女が二人きりの部屋でボードゲームに興じてる時点で色気とは無縁の状態か。
私たちは大人で、同期で、黒尾が私に手を出すなんて微塵も考えてないけれど、0ではない可能性の中で、もし何かがあったとしても正直、嫌ではないと思った。思ってしまった。だから、一匙のスパイスみたいな好奇心が背中を押す。
「……じゃあ、泊まろうかな」
「了解。俺はソファーで寝るから名字はベッドな」
「家主差し置いてベッド使うわけにはいかないでしょ。サイズ的にも黒尾がソファーなの厳しいだろうし。とりあえず下のコンビニで必要なものだけ買ってくるけど、明日休みだし、追加のお酒も買う? 今からピザパとかしても良いくらいなんだけど」
「それ絶対明日になって後悔するやつだろ」
「確かに」
財布を手に、立ち上がった私を黒尾が呼び止める。
「名字」
「ん?」
「俺が言うのもなんだけど、あんまり簡単に男の部屋に泊まんなよ」
言われずとも私だって誰にでもホイホイついていくわけじゃない。そもそも簡単に部屋にあがらないし泊まりの提案だってちゃんと断る。
「うん、わかってる」
「ほんとかよ」
「ほんとだよ」
私の感情全てを伝える必要はない。泊まらせてもらうという決断に至った私の考えを知る由もないからこそ、黒尾はそんな優しい忠告をしてくれるのだろう。
(24.10.15)