黒尾の家に泊まる話A


 何でこんなことになったんだろうと先程までの時間を思い返すのは今日2回目だ。
 背中合わせの体温。冴えわたる目。静まり返った暗い部屋で、はやる心臓の音が聞こえてしまわないか心配になる。

「……黒尾、寝た?」
「いや、まだ」
「そっか」

 黒尾の背中が僅かに動くのを感じて心臓が跳ねる。

「名字、後悔してんだろ」
「え」
「一緒に寝てもいいなんて言った事」
「や、そんなことはない……ような、ある、ような……」
「どっちだよ」

 変な空気を作らず軽快に笑ってくれる黒尾に安堵する。そもそも黒尾は事前に手を出すつもりはないと宣言しているし、こんな風に意識しているのは私だけなのかもしれない。
 ぎゅっと強く目をつむる。モヤモヤするのも、何かがあっても嫌というわけではないと思うのも全部私だけ。一刻も早く眠るべきなのに瞼の裏には先ほどまでの情景が浮かんでくる。

 ――て言うか、一緒に寝ても良くない?
 ――は?
 ――このベッド結構広いし、2人で寝ても余裕かなって。

 お酒を嗜みながら少しだけ夜更かしした事もあって口から出てきたのはそんな言葉だった。半分冗談で半分本気。それでも、きっと黒尾は笑って断ると思っていた。そうして私も冗談っぽくそのやりとりを終わらせてそれぞれ違う場所で眠るのだろうと。

 ――それもいいかもな。

 だけど、黒尾は私の提案を飲み込んだ。
 あれ、もしかして本当に何か起こってしまうのかもしれないと僅かに芽生えた可能性にドキドキしながら入り込んだベッドで、私と黒尾は背中合わせで横になった。

「……だって、こんなに窮屈だとは思ってなかったし」
「これでもセミダブルなんすけどね」
「あと、誰かと眠るのって久しぶりだし」
「それは俺も」

 後悔とはちょっと違う。後戻りできない恐怖の方が近い。それに、もしこのまま同じベッドで朝を迎えたとして、何もなかったとして、それはそれでなんだか癪に障る。私の事を完全に同期としか思っていない証だし、女として魅力がないみたいじゃん。

「黒尾が黒尾鉄子ちゃんだったら良かったのに」
「……想像して吐きそうになったわ」
「ごめん私も今ちょっと想像したら気持ち悪いなってなった」
「失礼だなおい」
「ごめんて」

 何かあるべきではないと思う反面、何か起こってしまえば良いんじゃないかなと思う自分がいる。自分でも持て余す矛盾した感情は眠気を遠ざける。

「ねえ」
「ん?」
「そっち向いても良い?」
「……おー」

 寝返りを打つと黒尾の首筋が目に入った。いつもみたいにツンツンしてない髪の毛と僧帽筋を縁取るように皺が寄ったTシャツ。

「黒尾もこっち向いてよ」
「え、なんで?」
「いいから向いてよ」
「……ハイ」

 私に促された黒尾は渋々と言った様子でこちらを向く。カーテンの隙間から差し込む月の光を頼りに、暗闇の中で見つめ合う。

「黒尾は、私が黒尾に手を出す心配はしないの?」
「え、なに。俺襲われちゃう感じ?」
「……あんまり簡単に男の部屋に泊まるなって言うけど、黒尾だってあんまり簡単に女の子部屋に泊まらせたら駄目だよって話」
「一応、この部屋に異性が泊まるのは名字が初めてなんで」

 それは私が同期だから。私との間には絶対なにもないって黒尾が思ってるから。少し手を伸ばせば触れられる。少し体を寄せればキスも出来る。だけど私たちの間にあるその「少し」の隙間が私たちの友情を作り上げている。
 でも、見つめ合う視線は普段とは全く異なるもの。何秒だったのか。何分だったのか。暫くの沈黙の後、黒尾が手を伸ばしてきた。頬に触れる黒尾の熱い手のひら。

「……このまま見つめ合ってたら、まじで手を出しちゃいそうになるんですけど」
「……手を出すつもりはないって言ってたのに」
「そうだっけ?」

 まだ戻れる。まだ引き返せる。いつものように冗談めかして、この雰囲気をなかったことに出来る。

 ――でも。

 何が私の背中を押したのか、私は黒尾との距離を詰めた。見開かれた黒尾の目。それを私の意思ととらえたのか、ゆっくりと黒尾の顔が近づく。寸前のところで止まって、少しの間を開けた後、唇が押し当てられた。柔らかい感覚。何度か離れては触れるキスを繰り返しながら黒尾は器用に体勢を変えて私の上に覆いかぶさった。
 キスは次第に濃厚さを孕んで、絡み合う舌と舌に呼吸が荒くなる。単純に気持ちが良い。このまま黒尾とのキスに溺れても良いのかもしれないと思うくらいに。

「……くろお」

 だけど名前を呼んだその瞬間、黒尾は唇を離した。距離が生まれて、私はぼんやりとした気持ちのまま下から黒尾を見上げるしかできない。

「……やっぱりソファで寝るわ。これ以上はまじで止められなくなる」
「止められなく、なる」

 黒尾の放った言葉をただ復唱した。
 
「付き合ってもいないのに最後までするのはダメだろ、さすがに」

 確かにそう。って言うか正論。

「言っておくけど、名字が嫌とかじゃないからな」
「う、うん」
「悪い」
 
 それだけ言って黒尾はベッドから抜け出した。温もりが消え、広くなったベッドで明日どんな顔をすれば良いのだろうと考える。変に意識することなく、普通にするべきだろうか。なかったことにするべきか否か。
 相変わらず眠気はやってこない。やっぱり恐怖じゃなくて後悔だったのかもしれない。

(24.10.16)
prev | back | next