なかったことにしたい話
『明日の夜空いてたら飯行こうぜ』
ようやく業務も落ち着いたんだろう。黒尾から久しぶりにご飯の誘いが届いた。いつもと変わらない誘い文句に、メールで良かったと思う。どんなにドキドキしてもどんなに緊張しても、相手には伝わらないから。
『うん、大丈夫。空いてる』
『食いたいもんか行きたい店ある?』
『明日給料日だし、せっかくなら焼肉食べたい!』
『了解』
本来の私だったらこういう風に返信をするはず、と意識して焼肉を提案してみる。会話に詰まってもお肉を焼くのに集中していたと言えば黒尾は笑ってくれそうだし。
「何着て行こうかなー……」
部屋の天井を見上げる。数日ぶりの二人きりだ。どんな服を着て、どの靴を選んで、どう黒尾と話そうか。
いつもと変わらない黒尾と、いつも通りを演じようとしている私のチグハグさに複雑な感情が芽生える。
ようやく得た機会に思いを馳せながら、夜は更けていった。
焼き上がっていく肉を見つめながら、このままうやむやにするのがスマートな行為で大人としてのマナーなのかもしれないと思い始めた。
「それ、そろそろ焦げそうじゃねぇ?」
「あ、うん。もらっていい?」
「どーぞ」
「じゃあこっちのお肉は黒尾がどうぞ」
「どーも」
表面上だけで見るのなら私たちはただの同期で、あの日のことは夢なんじゃないかとさえ思えてしまうほど。
黒尾はもう困っても悩んでもいない様子だし、引きずっているのは私だけなのかもしれない。
「今回ばかりはまじで文字通り忙殺されるかと思ったわ」
「黒尾がこんなに忙しいのって入社して初めてじゃない? 世界各地に出張した時もやばいなって思ったけどまさかそれ以上があるなんてね」
「本当にな」
そう思って、あの日のことを何一つ話題にあげずに今日を終わらせるつもりだった。
焼肉をお腹いっぱい食べて、帰り道に相合傘をすることになるまでは。
「傘、もっとそっちに傾けてもいいよ」
「おー」
ぽつりぽつりと雨が降る夜道。小さな折り畳み傘の中で触れ合う肩。小さな歩幅の足元を車のヘッドライトが灯す。黒尾はそれでも、私の方に傘を傾けてくれる。
もう少し店を出るのが早かったら雨に降られることもなかったのに。あの日はもっと凄い雨だったことを思うと、最近の私はもしかしたら雨と縁があるのかもしれない。
「名字」
そんなことをぼんやり考えていると名前を呼ばれ、傘の中で軽く抱きしめられる。視界は黒尾に閉ざされて何も見えなかったけれど、音と足元に飛んできた水で現状を理解した。
「だ、大丈夫? 今結構水しぶき飛んだよね!? ていうか今の車、雨なのにスピード出しすぎ……!」
縁じゃない。これは水難だ。占いに行けば水難の相が見えますとか言われちゃうやつだ。
「ハンカチあったはず……でもタオル買ったほうがいいかな……いや、いっそコインランドリー……?」
水しぶきの被害を受けた黒尾になにか出来ることはあるだろうかと考えていると目が合う。意図しない至近距離。拭くものはないかと鞄の中を探していた手は止まった。小さな傘の中は閉じ込められた世界みたいで、思い出すのはあの夜のこと。
「そんな慌てなくても俺は平気だから。つか悪い、足元濡れたな」
「全然、大丈夫。黒尾が、その、庇ってくれたし」
「……服は?」
「ぬ、濡れてない」
どうしよう、ドキドキしてる。
暗闇で見つめあったことも、重ねた唇の温かさも。部屋を支配していた、とても小さな吐息も五感がしっかりと覚えているから記憶が鮮明に彩られる。
でも、だめ。これじゃあだめなの。
「……あの日の夜のこと、だけど」
視線を逸らして口を開く。
「なかったことにしよう」
「は」
結局なんの前触れもなしに切り出してしまったから、また黒尾を困らせているかもしれない。
けれど今言葉にしないと私はきっと思い出す。なにかある度に。黒尾と瞳が交わる度に。思い出してドキドキして、黒尾をただの同期としてみられなくなる。
だからちゃんと口にしないといけない。それが私の意思だとちゃんと黒尾に知ってもらうために。自分を律するために。
「……って言うか、なかったことに、したい」
「……まあ、名字がそうしたいんなら」
黒尾の心地よい声色と共に雨音が私の鼓膜を揺らす。
これが良いんだよ。これが合ってるんだよ。これが正しいんだよと自分に言い聞かせるように何度も心の中で唱える。黒尾がどんな表情をしているのかもわからないまま。
「ごめん、ありがと」
少し距離をとって、肩を並べて歩き出す。これは私が望んだこと。最良だと思った選択。なのに、どうしてこんなにも心は苦しいのだろう。私と黒尾はこれからまたただの同期に戻れると言うのに。
(24.12.2)