同期のあの子B
「黒尾、おはよ」
「珍しく出社のタイミング一緒だな」
「今日はいつもより早い電車乗れたんだよね」
恐らく、正解の道を選べたのだと思う。名字にとっての。駅から会社へ向かう道すがら、背後から届いた名字の軽快な足取りと柔らかい声色を聞いてそんな事を考える。
「で、余裕があったから朝から優雅にコーヒー買ってきた」
そう言って名字は得意げにテイクアウトしたコーヒーを掲げて見せた。その様子を見ると可愛いも思うし、良かったと安堵もするし、そして少し寂しさも覚える。
「黒尾と会えるって分かってたんなら黒尾の分も買ってきたんだけどなー」
「気持ちだけもらっとく。サンキュ」
つい先日のことを思い返す。「なかったことにしたい」という名字の申し出。心にぽっかりと穴が空いたような、残り火がいつまでも燻っているような思いを抱えながらも俺が言えるのは肯定の言葉しかなかった。
実際、肉を食いに行った翌日から名字からぎこちなさのようなものは消えた気がするのだから結果オーライというやつなのだろう。まあ、なかったことにしたいほど嫌だったのかと思うと正直へこむどころではないが。
「あ!」
「え、なに、どした」
「そういえば当たりレシートだったんだ!」
重大な事実を思い出したと、名字は少しだけ大きな声で言う。
「当たりレシート?」
「うん、無料でドリンク飲めるんだって。これ黒尾にあげる。私も初めてみたけど店員さんもビックリしてた。レアものらしいよ」
ポケットから取り出された2つ折りのレシート。俺がもらっていいのかと思うけれど名字は嬉々とした様子で渡そうとするから断るのもはばかられる。
「そんなレアもん、俺がもらっちゃっていーの?」
「いいよ、いいよ。その方が私だけじゃなくて私も黒尾も嬉しい気持ちになれるじゃん」
「じゃあ帰りにでも使わせてもらうわ」
「うん」
心地の良い距離感と、心地の良い会話のテンポ。名字の考え方や言葉の選び方が俺にとって落ち着くものだから、なくしたくないものだから、これは俺にとっても正解の道だったのだと思っていたい。
例えば、これから先にあったかもしれない未来を手放していたのだとしても。
そう自分に言い聞かせて重ねる日々は、虚しくなるほどに順調だった。
そして俺がそんな事を思っていると夢にも思わない名字は今日も大きな口を開けて美味しそうにご飯を口に運んでいる。今日はいつもより業務が多かったと先程までは沈んだ様子を見せていたのに、料理が運ばれてきた途端顔を輝かせるのだからまったく単純で愛おしい。
「黒尾、あんまり食欲ない?」
「ん? いや、名字が豪快に食ってるの見てると自分も食べた気になるだけ」
「私は今悪口を言われている……?」
眉を顰めるものの、名字は明るい声を出して笑う。口の端についてるソースのことをいつ指摘しようかと考えていると名字が言う。
「あ、そういえば今度東峰さんとご飯行きましょうって話になったんだけど黒尾もどう?」
「……ん? ふたり、そんな親しかったっけ?」
「ううん、スペシャルマッチの時に仕事で関わったくらいだよ。でもこの前偶然街中で会って、久しぶりに話したら盛り上がったからせっかくなら改めてご飯でもって流れになったんだよね。黒尾の事も誘ってみますって言ったらぜひって言われたから」
名字がペーパーナプキンで唇を拭く様子を眺めながら、 一瞬にして膨らんだ想像ほどの関係性ではないことに胸を撫で下ろした。「日程決まったら教えて」と事も無に言ってはみたけれど、余計な想像をしてしまう自分の妄想力に辟易とする。こんな事で毎回反応していたら身が持たないと己がよく分かっているのに。
「じゃあ東峰さんと予定擦り合わせてみるね」
「……おー」
なかったことにすると決めた。名字の嫌がることはしたくない。困らせたくもないし、悲しませたくもない。楽しそうに笑ってる姿を見るのが好きだし、叶うことならいつまでも親しい間柄でいたい。
だけど――。
話題が切り替わり、食事を続けながらも頭の片隅でずっとそんな事を考え続ける。
「ねえ」
「ん?」
「このレモンパイ、すっごい美味しいんだけど」
食事の最後に運ばれてきたレモンパイを口にした名字は神妙な面持ちで言った。
美味しいものを食べたやつの顔じゃないけれど、名字のことだから想定外の美味しさに戸惑っているのだろう。
「美味しすぎて戸惑うから黒尾も一口食べてみて……ってなんか笑ってない?」
「いや、美味しすぎて戸惑う思考が面白ぇなって」
「でも黒尾も絶対好きだと思う」
目の前に置かれたプレート。戸惑うくらいに美味いレモンパイの感想を名字が期待しているようだから1口すくって口に運ぶ。
口腔内に広がる甘さと鼻から抜けるレモンの香りがマッチして、程よい甘酸っぱさは確かに美味いという他なかった。
「あ、すげぇ美味い」
「でしょ」
幸せに溢れた満面の笑み。目尻は緩く下がり、三日月の形に縁取られた唇からは白い歯が覗く。
ああ、そうだな。
好きだよ。
「なあ」
「うん?」
これからのことを考えなかったわけではない。同じ職場で唯一の同期なのだから気まずくなるのは裂けたいのは山々だ。
「この間の件、やっぱりなかったことにしたくねーんだけど」
名字は目を見張る。
だけど、他の誰にも譲りたくないという気持ちに蓋をすることはもう無理だった。
困らせてごめんな。やっぱり俺にはなかったことになんて出来そうにないし、その気の抜けるような笑顔は俺だけに見せてほしいから。
(24.12.5)