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 フィレンツェから戻ってきた翌週には飛雄くんからオーダーメイドの品を受け取ったという連絡をもらっていた。仕事が落ち着いたら取りに行こうと思っていたのにこういう時に限って急に予定が立て込んでしまい、結局飛雄くんと会う約束を取り付けたのはローマへ戻ってきてから2週間後のことだった。

「取りに行くって言ったのに街中で会うことになってすみません……」
「このほうが俺も楽なんで大丈夫です」

 仕事終わりの私と、試合終わりの飛雄くん。受け取った紙袋の中には私の頼んだ名刺入れとキーケースが不織布に包まれて入っている。

「受け取る時に確認の為に中身見るように言われたんで見たんすけど良かったっすか」
「もちろんです。本当にありがとうございました」
「いや……俺の方こそ買ってもらったんで、あざっした」

 飛雄くんが選んでいた黒のネームタグはキーホルダーにもなっていて、エンボス加工でオーダーした名前が入っている。周りを縁取るようにステッチされた糸が黒の深みを一層際立たせていた。

「飛雄くんの選んだネームタグ、どうでした?」
「すげぇかっこよかったです。同じバッグ支給されるときあるんで、使います」

 重ねた時間がこれから先の思い出になる。私がこのキーケースや名刺入れを使う度にあの日のことを思い出すように、飛雄くんにとってもそのネームタグがそういうものであったら良い。

「飛雄くんはこのまま帰るんですか?」
「そっすね」
「私ももう帰れるので、途中まで一緒に帰りません?」

 すぐ近くにある地下鉄乗り場。青色の四角の中に白字のMマークが書かれた看板を指差す。
 秋と冬の狭間。地下鉄の入口では背筋が伸びるような冷風が吹いている。改札を通ると、薄暗いトンネルから姿を現す車体。時間帯のせいかそれともどこかでイベントがあったのか、車内の混雑した様子が見てわかる。それでも日本の満員電車と比べれば、と思いながら私は飛雄くんと共に乗り込んだ。

「今日混んでますね。名前さん、大丈夫すか」
「そうですね。多分。なんとか、大丈夫だと思います」
「こっち移動できますか」
「え、あ、はい」

 そう言って飛雄くんは私を壁側に移動させる。人に埋もれながらもなんとか飛雄くんの指定した場所に立つと、少しだけ窮屈さが緩和した気がした。
 いつもよりもずっと距離が近い。だけど私の真横にある飛雄くんの腕を見てわかる。私は今、飛雄くんに安全を確保してもらっているんだなぁ、と。もちろんこれはある意味不可抗力にも近いだろうし、混雑した限られた空間だからこそこうなってしまったわけではあるけれど、落ち着かない距離感は私の心をふわりと惑わせた。

「きついかもしんねぇっすけど、我慢してください」
「は、はい」
「シャワーは浴びたんですけど、臭い大丈夫ですか」
「え?」
「試合で汗かいてるんで」
「それなら全然、大丈夫です」

 そういうのを気にするのがちょっと意外だと思った。瞬きを繰り返しながら、むしろ良い香りですと言ってしまいそうになった口をぎゅっと強く結ぶ。
 上下に動く喉仏。すっきりとしたフェイスライン。すっと通った鼻筋と切れ長の目。でも所々美羽さんに似ている部分もあって、やっぱり姉弟なんだなと改めて思った。

「美羽さんに似てますよね」
「え?」
「顔のパーツが所々似ているなって」
「そう、すか……?」

 飛雄くんは小さく首を傾げながらも私をじっと見る。

「名前さんは、小さいです」
「ん?」
「身長が小さいと思います」

 私は身長が特別高いというわけでもないけれど、特別低いわけでもない。

「飛雄くんと比べちゃったら大抵の人は皆小さいんじゃないですか?」

 だけど私の話題に方向性を合わせようとしてくれる配慮が可愛らしくて、飛雄くんが与えてくれた安全地帯の中で私は小さく肩を震わせる。

「……それもそうっすね」

 ちょっとズレたことを言ったと自覚したその表情に、私はキュンとしてしまった。
 しかしそれは恋を予兆するような甘い音ではなく、年下への庇護欲のようなものが鳴らした淡い心の音。なのだと思う。

「ああ、でも私が10センチのヒールとか履いたら――」

 その時車体が大きく動く。カーブに差しかかったのだろう。私はすぐに足元がふらついてしまったけれど飛雄くんは微動だにしないようだった。
 咄嗟に掴んだ先が飛雄くんの服の裾であることに気付いて私は慌てる。

「す、すみません。転ばないようにと無意識に掴んでました……」
「特に問題ないです」

 体幹を鍛えるまでは10センチのヒールは履かないほうが良いかもしれない。そんなことを思いながらも会話は途切れ、私はゆるゆると視線を斜め下へ向けるしかなった。あと何駅だっけ。次の駅で少しは人が減るだろうか。
 地下鉄は次の駅を目指してひた走る。10センチのヒールを履こうとも、重たい荷物を持とうとも、この安全地帯の中ではきっと転ぶことはないんだろうなと私はぼんやり考えていた。