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 しかし、飛雄くんから連絡が来るよりも、ひいては私が飛雄くんへ連絡するよりも先に私のスマホを震わせたのは日本にいる美羽さんからの電話だった。
 よく晴れた平日。カメラを片手に街へ繰り出している最中。表示されたその名前に私は一瞬だけ目を見張った。写真を撮る手を止め、スペイン広場の階段に腰を下ろす。名作映画のロケ地でも有名な階段。目の前には「バルカッチャの噴水」と呼ばれる噴水があって、太陽の光を受け水しぶきがスパンコールのようにキラキラと輝いている。

「もしもし、美羽さん?」
「電話では久しぶりだね。名前ちゃん、元気してる? あ、今電話大丈夫?」
「元気です! 今も元気に写真撮りに外出てるんですけど一人なので大丈夫です」
「そっか。良かった」

 いつもと変わらない美羽さんの軽快な声がスマホを介して私の耳に届く。
 現在の時刻は午後2時。日本とローマはこの時期、7時間の時差がある。こんな時間に珍しいと思ったけれど、日本は夜の9時頃なんだから仕事終わりの落ち着いた時間帯に私を気遣って連絡をくれたのかもしれない。
 渡伊前、最後に会ったカフェの外観を思い出しながら念の為、と美羽さんに問う。

「もしかして何かあったりしましたか?」
「知らせようと思ってることは1つあるけど、それはまあ最後でも良くって。とにかく名前ちゃん、イタリアでの生活はうまくいってるかなって思ってさ。まあ飛雄からも聞いてるし、あたしが心配する必要もないってわかってるんだけど」
「え、飛雄くんから?」
「うん。この前ふたりで一緒にご飯行ったんでしょ? 仲良くなったみたいで良かったよ」

 その言葉に1週間ほど前の出来事を思い出す。お礼という名目で共にしたテーブルの事を。あの日の事を飛雄くんが美羽さんに話しているとは思わなかった。もしかすると美羽さんが話題を振ったのかもしれないけれど、ふたりの会話の中に存在できていたのは純粋に嬉しかった。
 妙な面映ゆさを感じながら、決してそれが声色に出てしまわないようにと意識して言葉を紡ぐ。

「って言っても空港まで迎えに来てくれたお礼なんですよね。それ以来は会ってないし」

 それでも私はあの日の事を今でも鮮明に思い描くことが出来る。足の裏から伝わるアスファルトの感覚も、多言語が混ざり合う空気も、舌に広がる料理の味も、飛雄くんが言った「俺も今日楽しいと思ったんで」の言葉も。きっとあの言葉に他意はないのだろう。飛雄くんの真っ直ぐな飾らない言葉選びは、だけど、嫌いじゃない。

「飛雄は名前ちゃんのこと気に入ってると思うよ。写真も送ってきてくれたし」
「写真?」
「飛雄のこと撮ったでしょ?」

 美羽さんがいたずらに笑った気がした。ここで言う美羽さんの「気に入ってる」は男女の関係を言うのではなく、人としての関係を言っているのだろう。
 私も、実際に会って飛雄くんのことを人として尊敬できると思ったから、包み隠さずに言う。

「撮りました。撮らなくちゃって思って。飛雄くんって綺麗ですよね。美羽さんから聞いてた印象と近いんですけど、でももっと縁取られたって言うか」

 それとも周りがピンボケしちゃうのかな、なんてくだらないことを考える。

「身内の贔屓目を抜いてもあの写真の飛雄はかっこよかった」
「あはは。美羽さんのお墨付きなら間違いないですね」
「まあ、だから」

 美羽さんは一呼吸置き、何か気持ちを改めるように息を大きく吸う。

「だから、これからも仲良くしてやってくれると嬉しい」

 その言葉の何が私の心を揺さぶったのか、自分でもわからなかった。だけどそれは叱咤激励を受けた際に感じるものと、とてもよく似ているのだけはわかった。心の奥の、自分でもなかなか手が届かないような場所が揺れる。

「勿論、です」

 私も一呼吸置き、改めるように言う。
 電話の向こうで美羽さんが優しく微笑んだ気がした。

「実はさ、来月仕事で2週間くらいそっち行くことになったんだけど、少しは時間取れそうだから3人でどこか食べに行こうよ」
「え、美羽さんイタリア来るんですか!? 嬉しい! 一緒にご飯行きた……あ、でもせっかく姉弟水入らずなんだし、私は加わらないほうがいいんじゃ……?」
「いやいや、全然問題ないから。むしろ飛雄と名前ちゃんが仲良くなるのは姉として、友達として嬉しいし」

 秋のはじまりを彷彿させる、乾いた風が頬を撫でる。 

「行きたいです」
「じゃあ決まり。飛雄にはあたしから言っておくね」
「楽しみにしてます!」
「詳しいことはまた連絡するね。じゃあ、仕事の邪魔になったら悪いしそろそろ切るよ。またね」
「はい、また。おやすみなさい」

 季節は巡りつつある。これからやってくるイタリアの日々がたくさんの楽しいで溢れますようにと願いながら私はカメラを構える。ローマの街並みを見渡す。投稿用の文言を考えながらシャッターボタンを押した。

(22.05.20)