02

 講義が終わった瞬間の解放感。無意識にもれた大きなあくびを慌てて隠そうとしたけれど時既に遅し。隣に座っている友達のよっしーがこちらをみて小さく笑った。

「また昨日も遅くまでゲームしてたの?」
「……そんな予定じゃなかったんだけど、つい」

 今日は1限から授業があったし、ある程度満足したら終わるつもりだった。もうそろそろ止めようかなと思っていた矢先にコヅケンさんからのパーティー申請を受けて、結局、夜中の2時までコントローラーを握る事となったのだ。
 楽しかったし後悔はないけれどこんな風に眠気に襲われると自重すれば良かったとも思う。でもミミズが這ったような文字を読み解くだけでも十分集中したほうだ。

「昨日コヅケンさんいたから」
「ああ、あの」
「あのって」

 ゲームに興味がない友達でも私から聞く話でその存在だけは知っている。本名も年齢もどこに住んでるのかも知らないけれど、性別は男でゲームが上手だってことを。
 
「名前ってばいつも楽しそうにコヅケンとゲームしたって話するから妬けるなぁ。たまにはあたしとも通話しようよ」
「良いけどよっしー、夜はずっと彼氏と電話してるんじゃないの?」
「まあそうなんだけどー」

 気怠げに間延びした声。だけど不快には感じない。ほとんど毎日大学で一緒にいる私達がわざわざ電話で話す事なんてあるのだろうかと思ったけれど口には出さなかった。

「次の講義まで時間あるけどどうする?」
「スタバ行きたい!」
「そういえば新作のフラペチーノ飲みたいって言ってたもんね」
「やったぁ! じゃあ行こ行こ」

 そうして席を立ったその瞬間、目の前を通り過ぎた人が何かを落としたのがわかった。ひらひらと舞うように地面についたそれは、先程の講義で配られたレジュメだ。

「ねぇ、待って!」

 慌てて呼び止めると視界の真ん中で揺れる金色。踊る毛先に一瞬だけ目を奪われる。拾ったレジュメをその人へと差し出すと、よっしーとは別の気だるさが滲む瞳に私が映った。

「なに?」
「これ、落としたよ」

 確か、孤爪研磨くん。
 入学して2ヶ月、親しい人以外のフルネームはまだ覚えていないけれど、孤爪くんだけは学籍番号が近いから知っていた。ほとんど話したこともないから向こうは私の名前も知らないかもしれない。

「ああ……」

 レジュメを受け取った孤爪くんは私を一瞥する。

「ありがと、名字さん」

 絶対に呼ばれないと思っていた名前。緩く、どこか妖艶とすら思える微笑。耳障りの良い音が鼓膜を撫でて、心臓の奥の方で何かが弾けるような感覚を覚えた。

「あ……いえいえ、拾っただけなので……」

 そうして去っていった孤爪くんの背中を見つめていると、近くで私を待っていたよっしーがそっと声をかけてきた。

「誰だっけ今の」
「孤爪研磨くん」
「よく覚えてるね? 凄くない? あたし全然知らなかった」
「学籍番号近いから」

 だからきっと、孤爪くんも私の名前を知っていたのだろう。

「やば! あたし気付いちゃった!」
「何に?」

 ラメの入ったアイシャドウに負けないくらいキラキラと輝く瞳。甘いフローラルの香りを漂わせながらよっしーが孤爪くんの後ろ姿を指す。

「孤爪くんもコヅケンじゃない?」
「え?」
「あのコヅケンと同一人物だったりして」

 けたけたと笑う声。確かに考えてみたら孤爪くんもコヅケンになるけど。

「まさか、そんなことないでしょ」
「えー、わかんなくない?」

 日本であのゲームをやっている人はごまんといるし、その中でたまたま知り合った人が同じ大学に通う人でしたって奇跡的すぎる。むしろ運命の悪戯と言っても良いレベルだ。

「それを言うなら小塚健一だってコヅケンになるじゃん」
「うける。コヅカケンイチって誰」
「わかんないけど」

 孤爪くんがコヅケンさんでも別に嫌じゃないけれど、ゲームしてる時の素の私を知られてると思ったら恥ずかしくて顔合わせられない。
 だからやっぱりコヅケンさんは小塚健一じゃないと困る。

「絶対違うと思う。話してるときの雰囲気全然違うし」
「ええー、せっかく面白いことになると思ったんだけどなあ」

 脳裏に浮かぶコヅケンさんの声。ゲーミングヘッドセット越しに聞こえる、あの心地良い声色。その声は先程私の名前を呼んだ孤爪くんの声によく似ているような気がした。

「まあまあ。とにかくスタバ行こ」

 だけどやっぱりそんな奇跡的な出来事は起こるわけないと気持ちを切り替えて、私はよっしーと共にスタバへと向かうのだった。

(22.07.03)



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