05
2限目から講義が始まる水曜日は少しだけゆっくり眠れる優雅な日だ。だけど、そんな日に私は優雅とは程遠い勢いで大学内を走っていた。もちろんこれにはちゃんとした理由がある。寝坊という理由が。
かけ忘れていた目覚まし。5分で済ませた手抜きメイク。飛び乗った電車。なんとか滞りなく大学の正門まで辿り着くと、講義が行われる講堂目指して私はひた走る。間に合いますようにと願いながら講堂の大きな観音開きのドアの前に立ったのは講義が始まるちょうど1分前の事だった。
「……ん?」
そしてドアノブに手をかけた瞬間、違和感を覚える。
なんかやけに静かじゃない? と。
「名字さん」
背後から届く声。驚きなから振り向くと、視線の先には孤爪くんがいた。
丸い瞳が私を捉える。
「孤爪、くん」
孤爪くんもこの講義を履修していたはずなのにどうして慌てた様子もなくここにいるんだろう。むしろどうして私がここにいるんだって言いたそうな不思議な顔をしてる。
これはまさか、もしかして。いや、もう『そう』としか考えられない。
「……あのさ、今日の講義って休講?」
「休講情報、見てないの?」
「寝坊してスマホの確認してなくて。先にスマホ確認してから家出れば良かっ……あ、あれ?」
トートバッグの中に手を突っ込んでスマホを探す。整理整頓する暇もなかったバッグの中。ありとあらゆるところを探してみても目当てのものが見つからない。
「……スマホ、家に忘れてきたみたい」
「うわ……」
家を出る時、絶対に鍵をかけ忘れないようという思いでいっぱいだった事を思い出す。念の為もう一度しっかり中を見てみたけれどやっぱりスマホは見当たらない。
顔をしかめながら私の動作を見つめる孤爪くん。スマホないのは困るし今日一日どうしようって悩むけど、孤爪くんが声をかけてくれたから多分、私は最悪じゃない。
「でも孤爪くんに声かけてもらえて良かった。じゃなかったら休講だってすぐにわからなかったし」
「いや……俺は別に。ていうか大丈夫なの」
「まあ、自信満々に大丈夫って言えないけどなんとかなる……気がする!」
「結構自信満々になんとかなるって言ってるけど」
孤爪くんの口元が緩く弧を描く。
今はもう孤爪くんをコヅケンさんだと疑うことはないけれど、あれ以来、実は私は時々孤爪くんを目で追っている。だから孤爪くんのそういう表情が滅多に見られるものではない事を知っていた。
「そ、それにもう少ししたら友達もくると思うし」
孤爪くんとは同じ講義がそこそこあるから校内で話す事も増えたけれど、それでもまだ友達と言うには距離がある。
そのままお礼を言って学生ラウンジでよっしーを待つのが得策なのはわかっていた。わかっていたけれど、離れ難いのはどうしてだろう。
何か話題はないかな。夏季休暇も近いし、補講じゃなくてレポート提出になるのかな。なんて当たり障りのない話題を持ち出そうとした時、お腹の虫が先に声をあげた。
「ご、ごめん。今日は寝坊したから朝ご飯食べてなくて……恥ずかし……」
「名字さんて元気だよね」
「え?」
「なんか、見てて飽きない」
「それは、えっと……褒めてる?」
「わりと」
見てて、なんて孤爪くんは言うけど家にいるときの私はただのゲーマーだし、大学にいるときだってキラキラしたパリピ系女子大生でもないし、全然どこにでもいる至って平凡な人間だ。
「や、そんな、私フツーの人間だし」
「俺だってフツーの人間だけど」
「でもバレー部の友達から聞いたよ。孤爪くん高校のときバレーで全国行ったんでしょ? 凄いよ。私なんて運動音痴だからフツーの人間以下かもしれない……」
「行ったけど俺が凄かったわけじゃないし。でもまあ、名字さんが運動音痴なのはわかる気がする」
刹那、脳裏に浮かんだのはコヅケンさんだった。過ぎ去った言葉を頭の中で再生させる。わかる気がする。そう言った感じがすごくコヅケンさんに似てる。
「今の……」
「今の?」
もう一回言って、なんて絶対変って思われる。いたたまれなくなって孤爪くんから目をそらす。
そもそもコヅケンさんは孤爪くんじゃないって結論を出したし。聞いたとき否定してたし。あれ、違うな。否定はされてないな。それに私もコヅケンさんは孤爪研磨くんですかって直接聞いてないな。
夏の始まりに冷や汗が背中を這うのを感じながら、私はゆっくりと口を開いた。
「……あの、孤爪くん」
「なに?」
「孤爪くんって、その……ゲームとか、する?」
「なんで?」
「いや、それは………」
だけど、顔を上げた先にいる孤爪くんは不敵に笑っている。
「するよ」
する。するのか。それってどんなゲーム? FPS? TPS? 音ゲー? 格闘系? 聞きたいけど言葉を紡げない。
だって、その表情と声に重なるのは本名も年齢もどこに住んでるのかも知らないコヅケンさんだったから。
(22.01.08)