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 店先につけられた車を前に、どの席に乗るのが正解なのか頭の中で必死に考える。無難……というか流れ的に助手席に座るべきか、諸々を考慮して後部座席に座るべきか。
 星空の下、石畳の上に停められた車の運転席の窓が下げられて飛雄くんが顔を出す。

「寒いんで隣乗ってください」
「は、はい!」

 私の頭を支配していた2択を知ってか知らずかそう言われる。おずおずと助手席に座り、シートベルトをしめた。
 なんか緊張する。誰かの運転する車に乗るのも久しぶりだし、この密室の感じもそうだし、何より飛雄くんが運転する車に乗っているという事実が。

「シートベルト、最後まで刺さってないです」
「ご、ごめんなさい」
「この車、刺さり悪いんで」

 確かにちょっと刺しづらいなとは思った。コツがいるのかそれとも力がいるのか刺し直しても上手くいかず、見かねた飛雄くんが身を寄せる。
 ほんの少し体が触れて、ふわっと良い香りがした。一応、緊張はおくびにも出さないようにしてたけれど、さすがにこの距離感はまずい。イケメン、密室、近距離の三拍子が揃ってしまってはいくらそんな気がなくても勝手に心臓は脈を速める。

「あの、息してください。心配になるんで」
「え、あ、息?」
「今止まってました」

 シートベルトを正しく刺ささったことを確認して、飛雄くんが離れていく。
 どうやらいつの間にか呼吸することを忘れていたらしい。私だけが勝手に緊張して、ドキドキしていて恥ずかしい。一刻も早く心を落ち着かせなければと深呼吸を繰り返した。

「車出しますね」
「お願いします……」

 ゆっくりと加速していくスピード。座席に体重を預け、窓の外を見る。地下鉄に乗っている時には見えない地上の景色は歩いている時に見える景色とはどこか違うようにも思えて、妙な優雅さを感じた。

「……ローマの街中を車で移動したことなかったので、景色がいつもと少し違って見えます」
「寄りたいところあるなら寄ります」
「寄りたいところ……」
「車じゃないと行けないところとか」

 そんな提案をされるとは思ってなかった。今日はちょっと予想できない展開が多すぎて心が追いつかないな。

「うーん……どこかあるかな……。こういうの、急に言われると難しいものですね」
「家向かって走りますけどあったら教えてください」
「ありがとうございます」

 大通りに出ると道は舗装されているから車の揺れも小さくなる。寄りたいところは全然思いつかないけれど、この時間ができるだけ長く続けば嬉しいなと思った。
 もちろんそんなことは口にせず、私はこっそりハンドルを握る飛雄くんの横顔を見た。

「イタリア語は覚えましたか」
「あー……えっと、読むだけなら簡単だし大丈夫なんですけど、意味を理解したり自分の意思を伝えたりするのはまだ全然で。意外と英語で対応してくれる人も多くてそれに甘えているのがいけないのかも」

 街中にあるライトアップされた歴史的建築物をテベレ川にかかる橋から見つめる。この辺りは地下鉄の駅もないし初めて来る地区だ。名の知れた観光地があるわけでもないのに、この国には至る所に目を引かれる美しさがある。

「すげぇっすね」
「すごい?」
「俺は英語も話せなかったんで」
「ああ、うち、好きなことをしてもいいけどその分勉強だけはちゃんとしなさいっていう教えだったんです。当時は大変だったけど、今となっては感謝してます」

 それから暫く車を走らせると知った景色が見えるようになった。ここまで来れば家までの距離を頭の中で計算できる。あと数分、といったところだろうか。結局最後の最後まで行きたいところは思いつかなかったな。

「大丈夫そうで安心しました」
「え?」
「名字さんがこっち来る前、姉がすげぇ心配してて」
「あ、美羽さんから散々言われたって言う」
「それです。とにかく頼れるのは俺しかいないからちゃんと気にかけるようにって何回も言われてたんで」
「美羽さん、面倒見良いですもんね」
「名字さんだからじゃないっすか」
「私だから?」
「仲良い女友達でもあるけど妹みたいなもんでもあるって言ってました」
「そんな風に言ってくれてたんですか? なんか嬉しいなあ……」

 でも、私が大丈夫そうだと判断した今、飛雄くんはお世話を焼いてくれることはなくなるんだろうか。なんて、そんなことを考えるのはちょっとわがままか。

「なので名字さんと会う前はどんだけ弱い人が来るんだと思ってたんすけど、想定していたより全然逞しい人だったんで安心しました」
「あはは、これでも大人なので。それにやっぱり飛雄くんがいてくれることはとても心強いです。イタリアにきて知り合った人はたくさんいるけれど、一番信頼出来るのは飛雄くんだなって思うので」

 車が止まる。私のアパートの前で。

「送ってくれてありがとうございました。ピザもごちそうさまです」

 少しかたいシートベルトを外して、ドアを開ける。頬を撫でるひんやりとした風。ぼんやりとしていた思考が一気にクリアになる。

「名字さん」

 ドアを閉める直前、飛雄くんが私の名前を呼ぶ。

「また、連絡します」
「はい。また」

 閑静な住宅街で車のエンジン音が響いた。

(25.4.1)