The memorial day

「名前ちゃん、仕事終わったら飲みに行かない? 俺、奢るよ」
「あー⋯⋯すいません。嬉しいんですけど、遅くなると彼氏心配するんで」
「え、彼氏いたんだ?」
「居ますよ。なんですか、居なさそうに見えるんですか」
「いや違うって。だってほら、前に彼氏欲しいって言ってたから」
「前ってそれ、結構前なんですけど」
「あれ、そうだっけ?」

 元の鞘に納まるというのは少し複雑な気分である。元カレとより戻したんだよね、と言うと周りは祝福してくれるけれど、私たちの事を知らない人達はおいおい大丈夫かそれと言いたげな顔をするのだ。1度ダメになったんだから、2度目もダメだろ。と思っているんだろう。

「まあ、今カレは元カレなんですけどね」

 机の上を片してパソコンの電源を落とす。社員証を足元に置いてある鞄の内ポケットにしまいこんで「じゃあ、お疲れさまでした。お先です」と先輩に向かって言った。先輩は、少し怪訝そうな顔をしていた。
 直属の先輩であるこの人は、部の中では優しくて顔もそこそこ格好いいから女性社員には比較的モテている人だ。でも、と思う。でも、徹のほうが何倍も素敵だ、と。コツコツと、硬いヒールの音が人手の少ない廊下に響く。まだ明かりの灯っている部署はうちのほかに片手で数えられる程度だ。
 10月の夜になるとそれなりに寒さも姿を見せるようになってきて、寒がりの私は少しばかり早いと分かっていてもショート丈のトレンチコートを愛用している。もう寒さに打ち勝てるほど若くないのだ。
 徹はもう家にいるだろうか。そんな事を考えながら乗る地下鉄は割りと好きだ。ご飯の用意してくれてるかな、とか。連絡を取ればすぐに分かることなのに着くまでワクワクをとっておきたいと思う気持ちがついそれを止めてしまう。

『お疲れさま。そろそろ帰ってくる? 美味しいご飯と一緒に名前のこと待ってまーす』

 ポケットの中で震えた携帯を確認する。電車の中だと言うのについ口元が緩んでしまった。駅についたら私、きっと小走りで帰っちゃうんだろうな。『もうすぐ着くよ』それだけを返す。もうすぐ着くよ。二人の家に。
 それからしばらく電車に揺られて、マンションからの最寄り駅に着いた私は案の定、小走りで部屋へと向かった。

「ただいま! 帰ってきたよー」
「おっ、おかえり。今日もお疲れさま。いつもより遅かったけど大丈夫?」
「うん。明日休みだから今日頑張っておこうと思って残ったんだ。けどお腹すいちゃったよ。ごはん!」
「ははっ。ちゃんと出来てるから手洗っておいで」
「私たち親子みたいな会話しててなんかウケるんだけど」
「まったく、名前ちゃんは手のかかる子だなあ」

 20数年生きてきた中でいつが最高に幸せな瞬間だったかと問われたら、正直いつです、とは答えられないけれど、でも多分今の私は幸せな瞬間に存在しているんだと思える。最高かどうかは分からないけど結構上位にいるんじゃないかな。それにテーブルの上に置かれた夕食には私の大好きなナスの煮浸しがあるし。
 手を洗って、テーブルについて、いただきますと言って、箸を持つ。目の前にいる人を見て、これはもう家族と言っていいのではないだろうかと思ったりもする。

「⋯⋯徹さ、前にさ」
「うん?」
「プロポーズするって言ったじゃん?」
「言ったね」
「するの?」
「え、そういうの聞いちゃう?」
「聞いちゃう」
「するけど⋯⋯え、なに待ってとか? やっぱまだちょっと無理とか?」
「や、そういうのでは全然ないんだけど」

 みそ汁を飲む。美味しい味と温かさが体に沁みるようだ。やっぱり徹って女子力高い。もしかしたら、私よりも。

「なんかもうさ、家族みたいだよなあって思っただけ。このまま結婚してもさ、全然問題ないよなあって。お互いの親だって高校の時から知ってるしさ、この前の帰省の時にだって軽く挨拶はしたし。いつでも私は及川になれるんだなあって思ったら、なんかこう、ほら。⋯⋯幸せってこういうのを言うんだろうなって」

 ね、そう思わない? はにかみながらそう言って徹のほうを見る。少し驚いた顔をした後恥ずかしそうに耳を赤く染めた徹は私から視線をそらした。

「⋯⋯ちょっと、そういうの名前から言われるとは思わなかったから動揺してるんだけど」
「えっ動揺?」
「⋯⋯凄く、なんだろう⋯⋯もう今すぐ結婚しようとか言いたい気分なんだけど。どうしてくれんの、俺まだめちゃくちゃ格好いいプロポーズのシーン考えてる途中だったんだけど」

 あ、それ本気だったんだ。けど、久しぶりに胸の奥の普段は顔を見せないような部分がくすぐられて私も上手く返事が出来ない。

「⋯⋯全然、今してくれても、私は嬉しい、ですけど」
「⋯⋯ご飯の最中に?」
「ご飯の最中に」
「全然かっこよくないよね?」
「格好良くない徹の方が好きだったりして」

 徹はまだ耳を赤くしたまま、私のほうを見た。整った顔だと思う。本当のことを言うとこの人の格好良くない瞬間なんてない。大変なこともあるだろう。辛い日もあるだろう。でも、良い。この人とならそれでも良い。どうあがいても結局、私の納まる鞘はここになるのだ。

「⋯⋯俺が」
「うん」
「俺が一生、名前を幸せにするから」
「⋯⋯うん」
「だから、結婚しよう」
「うん⋯⋯うん、私も一生、徹のこと幸せにしてみせる」

 少し冷めたみそ汁。白いご飯。ナスの煮浸し。しょうが焼き。付け合わせのサラダ。徹に言わせたらかっこよくは無いだろうけど、私、最高に幸せだ。

「⋯⋯やっぱりこれマッキーあたりにダサいって笑われそうなんだけど⋯⋯」

 ごねる徹を前に私は微笑むしか出来ない。遠くはない未来に私は及川を名乗ることになるのだ。家族が増えるかもれない。ここを引っ越すことにるかもしれない。それでも帰る家は二人同じだ。おはよう。いってきます。ただいま。おやすみ。全部、全部、この人の隣でこれからもずっと変わらぬ日々を送っていく。いつの日も。
 
「とっても素敵だったよ。だって今の私、世界で一番幸せなんだろうなって思えるくらいだもん」

 愛はまだ、育まれたばかりだ。

(16.08.21)