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 赤葦が選んだ場所は水族館だった。誘いの連絡は、思っていたよりも緊張せずに送れた。名前からの返事も直ぐにきた。トントントン、と調子のよいリズムで進む歩み。悪いと思う部分がない。多分、心地よい。けれどいつまでもスタート地点にいるわけではないのだ。ぬるま湯に浸るわけにもいかないのだ。あの子が一生懸命に気持ちを伝えてくれる度に、気持ちが前のめりになる。多くを望んでみたくなってしまうのだ。
 赤葦京治は、覚悟と少しの不安を抱いて名前を待っていた。

 名前が選んだのはお気に入りのワンピースだった。まだ数えるほどしか袖を通していないそれは新品と大差ない。赤葦とのやり取りは想像よりもスムーズに行えた。もっと緊張すると思っていたのに楽しみな気持ちの方が勝っていたようだ。鏡の前でくるりと回る。裾が尾びれのように泳いで、香るように名前を色付けた。それは少なからず、名前に勇気を与える。
 名字名前は、期待と少しの勇気を抱いて赤葦との約束の場所へと向かった。

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 男の子とこんな風な二人きりで水族館に出掛けることは初めてだ。水の中を自由に泳ぐ魚を目に入れながら、名前の意識は隣に並ぶ人物に行く。
 おもむろに、そっとバレぬよう赤葦の横顔を見つめると精悍な顔付きに、隣に並ぶことが間違いなのではないかとさえ思える。すらりと伸びたその背丈に見合う気がこれっぽっちもしない。
 名前の思いを知ることはない赤葦は大きな水槽の中にいる魚を眺めては、よく動く尾びれの忙しなさに、駆け込み乗車をする名前の様子を重ねた。それがなんだか可笑しくて口角を上げてしまったけれど、そんな思いを名前が知ることはないのもまた然りなのであった。

「そう言えば、あと15分くらいでイルカショーじゃなかったかな?」
「あれ、もうそんな時間なの? ええっと……あ、隣の部屋がイルカショーするところみたいだから時間、丁度良いね」
「楽しみ?」
「もちろん! 水族館が久しぶりだし、今もすごく楽しいけど水族館と言えばイルカショーだもんね。わくわくする」

 屈託の無い笑みに赤葦の心は軽くなる。
 これは所謂、デートだ。と赤葦は思う。いや、少なくとも赤葦はそのつもりで朝、家を出た。名前のほうはどう捉えているのかは分からないけれど、そのつもりなのだから失敗はしたくない。楽しんでもらいたい。
 先日の言われた事を思い出しても、自惚れない男はいないと思う。彼女は恐らく、きっと、十中八九、自分に好意を抱いてくれている。いやむしろそうでなければ困る。そうでなければ、女性と言う生き物を今後疑いの目で見ることになってしまいそうだ。
 赤葦はこの後、どうやって改めて気持ちを伝えれば良いのか思考を巡らせていた。バレーの試合をメイクするのとはわけが違う。感情が絡んでくるだけあって、中々にややこしい。

「赤葦くんは、水族館よく来るの?」
「全然。俺も久しぶり。それこそ小学生以来じゃないかな」
「えっ本当に? 私は去年ぶりかなあ。中学年のときは光太郎くんと行ったことあるけど、光太郎くんてばサンマの群れ見て美味しそうとか言うんだよ。分かるけどさ……分かるけど違うじゃん! ってね」
「あー、なんか想像つくかも」
「でしょ?」

 名前は赤葦の微笑む様子を見ると、満足そうな笑みを携えた。赤葦はその様子に首を傾げる。

「でも今日は赤葦くんとで良かった。すごく楽しい」
「……俺も、俺も同じように思うよ」

 その一言に今はただ、ゆっくりイルカショーを観ることに集中しようと思う赤葦だった。


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 それでも、その時というのはやってくるのである。水族館を堪能し、近くのカフェでお茶をし、残されることと言えば気持ちをきちんと伝えることだけだった。駅に向かう足取りはいつもより遅い気がする。
 名前はどんな風に今日という1日を過ごしたのだろうか。そんなことを考えては、いつ彼女の名前を読んで呼び止めるか赤葦は悩んでいた。

「赤葦くん? なんか具合悪い?」
「えっ?」
「口数減ったから疲れたのかなって思ったんだけど……」
「ごめん。疲れたりはしてないから、全然。大丈夫。ちょっと考え事しちゃってて」
「そっか。ならよかった。もうすぐ駅だし、家着いたらゆっくり休みながら考えられるね」
「うん……。けど」
「けど?」
「けど、ごめん。名字さんのことだから、聞いてほしい」
「えっ私?」

 いつになく真剣な眼差しを向けてくる赤葦に、名前は動揺した。水族館で見ていた赤葦の顔とはどこか違う。
 駅の入り口付近の、人の少ない場所に二人は移動した。「……こんなところでこんなこと言うの、かっこよくはないんだけど、ごめん。聞いて」と赤葦は躊躇いがちに言う。

「今日、俺も凄く楽しかった」
「え、あ、うん。私も」
「……俺は今日、デートをするつもりで名字さんを誘って、デートのつもりで過ごしてきたんだけど」

 赤葦の言葉に名前は目を見開いた。そうであれば良いな、と思いながら自分も今日という日を過ごしていた。だけど、そんな自分勝手に舞い上がるのはもう止めようと思っていたのだ。

「改まって言うのは照れるんだけど……また、こうやって名字さんと出掛けたりしたい」
「は、い」
「もちろん、デートとして」

 気恥ずかしくてまっすぐに赤葦の顔を見られない。どんな風に自分を見ているのだろう。名前は自分を落ち着かせるように大きく息を吸って、吐き出した。

「……私もしたい。赤葦くんとデートしたい。秋の紅葉も、冬のイルミネーションも、春の桜も、赤葦くんと一緒にきれいだねって言いながら眺めてみたい……。そうやって少しずつお互いのことを知っていって、ゆっくりだけとたくさんの好きを重ねていきたい」

 名前の言葉に赤葦が柔らかい笑みを見せる。多分、言葉を交わした日からこうなることを密かに願っていたのかもしれない。いつしか築かれていた壁が脆く崩れさって、光の指す向こう側に手を伸ばしてみたくなったのだ。

「それ、名案だね」

 きっと、ずっと前から恋は始まっていた。いつのまにか種は蒔かれていた。それが今ようやく二人に笑いかけてくれているのだろう。この優しい恋の行く末を見守るように。

(16.07.01)