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――まもなく電車が参ります。黄色い線の内側にお下がりください。

 朝、電光掲示板に流れる文字を赤葦京治は見つめた。熱の籠る暑さをまとった風が電車と共にホームにやってきて、残暑の厳しさを教えてくれる。勢いよく空気の抜ける音がしたあとドアが開くけれど、ここで降りる人はほとんどいない。大抵このひとつ前の駅で降りるか、もっとずっと先まで乗っている人が多いのだ。赤葦は電車に乗り込んで端の席に座った。

――ドアが閉まります。付近の方はお気をつけください。

 たった一駅。時間にしてみれば五分もない。けれどこの短い時間にも彼女は懸命に、間に合うようにと走っているのかもしれないと思うとどこか温かい気持ちになる。揺れに身を任せながら名前の知らない彼女を想えば、あっという間に次の駅へ着く。同じようにアナウンスが流れると、赤葦は少し浮き足立つ気持ちでドアの方を見つめた。彼女はやはり、なかなか現れない。
 
――まもなく電車が発車します。駆け込み乗車はお止めください。

 音声が車内にまで届いた。連絡はこなかったけれど、もしかすると今日は間に合わないのかもしれない。赤葦がそう思ったとき、彼の乗る車両に一人の女子高生が駆け込むように乗車した。揺れるスカート、乱れた息。セーフ、間に合った。と安堵した様子を顔に出している彼女を、赤葦は気付かれないように見つめて、微笑んだ。彼女が乗車したのを見計らって、扉は閉まる。加速する電車。彼女は赤葦を見つけると嬉しそうに微笑む。思い出したように乱れた髪を手櫛で整えると、その頃にはもう電車は駅を後にしている。
 女子生徒は赤葦の元に歩みを進め、花の咲くような笑顔を見せた。

――次は○○。次は○○。

 かつて、彼女は赤葦のことをその視界にいれることはなかった。同じ電車の、同じ駅の、違う学校。ただそれだけの関係だった。それでも赤葦にとってはその朝が少し特別だった。彼女の身に纏う制服が、梟谷学園からそう遠くはない学校のものだと赤葦は知っていたし、彼女がいつも自分と同じ駅で降りることも知っていた。けれど、それだけで充分だった。自ら声をかけようとは考えもしなかった。もちろん、その反対だってあることはないと思っていた。
 けれど今、自分の隣にはそんな彼女がいる。自分が話しかけて、彼女が笑うのだ。愛と呼ぶにはまだまだ足りないものばかりだけれど、恋と呼ぶには相応しいほど全てが整っている。

――まもなく○○。まもなく○○。

 2度目の車内アナウンスの後、電車が次の駅に到着する。窓から見える、ホームに並ぶ人々。扉が開いて、人の流れが生まれる。赤葦も、彼女も、なれた風景なのか気にとめることはない。いつもは朝の眠気に負けて瞼を降ろしてしまう彼女はもういない。眠いときは寝ても良い、と言う赤葦に彼女は首を横に振る。「そんなもったいないことできないよ」それだけで世界の色が変わったように感じるのだから、人の心は不思議だ。
 名字さん。赤葦が呼ぶ。ずっと前から知っていた名前。だけど口に出すまでに時間がかかった名前。今もう、口からするりと溢れるようにその名前が出てくる。「名前を知らない他校の女子高生」は「××高校の名字さん」になり、そして「彼女」になった。

――まもなく△△。まもなく△△。

 そういえば、と名字が言う。来週は朝練がないから電車乗る時間バラバラになりそう。赤葦は頷いた。
 いつか、この朝の時間も終わりを迎えるだろう。それは部活を引退した日からかもしれないし、学業に本腰を入れ始める日からかもしれない。それは寂しいことかもしれないけれど、二人はもう大きな世界で思い出を重ねていけるのだ。広い世界で、恋に揺られて。もしかすると違う電車が二人を素敵な場所に連れていってくれるかもしれない。だからもう、なにも寂しいことはない。
 電車の速度がゆっくりと落ちていき、定時にホームへ止まった。赤葦に促されるようにして名字も開かれた扉から踏み出てホームに降り立つ。隣にならんで、人の流れに乗るように改札口へ向かう。ICカードは二人をすんなりと改札の外へ出してくれた。
 大きくはないけれど、小さくもないこの駅で改札を出た後、彼と彼女は別々の出口に向かうことを二人は知っている。

「じゃあ、夜にまた連絡するね」
「ああ、うん。ごめん、返事は部活が終わってからになりそうだけど」
「いいよいいよ。私、返事遅くても気にならないから。むしろその方が気楽」

 赤葦は微笑む名前に応えるように微笑んで、己の目的の出口の方へ足を向けた。また夜に。いつかの日、自分のことを知らない彼女の姿をまた明日見られるのだ、と満足していた。けれどどうだろう。今はこれだ。満たされては不足する。そんなことを繰り返している気がする。

「待って、赤葦くん!」

 名前が小走りで駆け寄ってきて赤葦を呼び止める。下にある名前の顔を見つめた。

「今日も1日頑張ろうね!」

 笑顔。何か柔らかい風が赤葦の心を吹き抜けた気がした。くすぐったい。自分でも気がつかない隙間から顔を出されたかのような。きっと彼女はそうやって心のなかに入ってくるのだ。いつだって、そんな風に。

「そうだね」

 また明日。その笑顔を見るとき、彼女はいつものように駆け足でやってくるだろう。そして自分はいつものようにそれを温かい気持ちで、だけど少し心配になりながら見つめるのだ。いとも簡単に駆け込む彼女を。

「それじゃあ今度こそ」
「うん、また」
「またね!」

 こうして、赤葦京治の1日は幕を開けるのである。

(16.07.02)