06

 夏休みになってしまえばしばらく通学はなくなる。部活で学校に行くことはあれど、きっと彼と同じ時間の電車に乗ることはないだろう。それだけが夏休みを目前に控えた名前の胸の突っ掛かりだった。
 好きなのかと聞かれたらやはりまだ分からない。だけど知りたいと思う。名前もまた、赤葦と同様に自身の胸の燻りに戸惑いを隠せずにいたのだった。
 風呂上がりの濡れた髪を乾かさぬままベッドに寝転がった名前は木兎に連絡を入れる。

『近いうちに試合ってないの?』
『試合? ないけど、どうした?』
『そっか。別になんでもないよ』

 試合があれば応援に来ましたという口実ができると考えたが、名前の企みは叶うとこはなかった。
 赤葦くんは優しいから、例えば私が部活終わりにご飯でも食べに行ったりしてみませんかと誘えば快諾してくれるはずだ。
 しかし、と名前は考える。しかし現実は安易ではない。年頃の男女が出掛けると言うのは簡単な事ではない。当人達にとっては友人関係であろうとも、世間の目は男女が並んで歩いていたら大抵は恋人同士にも見えるのだ。名前はその世間の瞳に耐えられる自身がなかった。いや厳密に言うと違う。申し訳なさを感じたのだ。他人からの視線とはいえ自分が彼女と思われる可能性があるのが。いやそもそもこんなに自惚れてて良いのだろうか。もし向こうに彼女がいたら? もし誘って断られたら? そんな心配ばかりが頭を駆け巡る。
 木兎やクラスの男子には抱かないような感情を赤葦に向けてしまいそうになる自分をうまく抑制できない。名前の頭を占める人物が連絡を寄こしたのはそんな絶妙なタイミングだった。

『こんばんは。今朝は連絡先教えてくれてありがとう。明日の朝も先に車内で待ってます』

 彩りがない至ってシンプルな文面。それなのにも関わらずその文字を見た瞬間、名前の心は高揚した。連絡してくれた。その事実がたまらなく嬉しかった。少し考えて冷静を保って返事をする。焦るな、私。そう言い聞かせて。

『こんばんは。連絡くれてありがとう! 明日こそは余裕を持って家を出られるように頑張りたい! 赤葦くんと会えるの楽しみだから明日はもっと早起き出来る気がする! これまでのことを考えると説得力ないんだけど……』

 当たり障りのない返事をしたつもりだったけれど、自身の文面を見返した名前は、少し迷って、文章を変えた。

『こんばんは。連絡くれてありがとう! 明日こそは余裕を持って家を出られるように頑張りたい! これまでのことを考えると説得力ないかもだけど……とにかくまた明日、電車でね!』

 楽しみにしてるなんて、彼女でもないのに。
 ただ少し。クラスの男の子よりも話しやすくて、光太郎くんよりも一緒にいてドキドキする。それだけ。だって私達は毎朝電車の中で話すだけの存在だ。少し特別な感じがするけれど、だからってそれだけで好きになるわけじゃない。
 今はまだ恋とは断言できない。そう、これは好奇心だ。会って話をして、あの人を知ってみたいという好奇心。いとこと同じチームで、たまたま同じ電車で、同じ年で、そんな偶然が運んできてくれた好奇心。
 燻る感情を前に、名前はそう自分に言い聞かせていた。しかし、恋は好奇心から始まるということを名前はまだ、気付いていない。見える恋の断片はいつだってその側にいるのだ。優しい微笑みを携えて。


△  ▼  △


「おはよう、名前さん。今日は駆け込み乗車じゃなかったね」
「うん、おはよう。昨日約束したから。だからちゃんと余裕を持って乗車したよ」

 赤葦は微かに口角を上げる。いつもは乱れた髪を手櫛で整えるのに、今日はおとなしく隣に座ったことがどこか楽しく感じて、心が柔らかい気持ちになる。それは過ぎ去った春のような穏やかさを持っていて、自分はまだ彼女のことをほとんど知らないけれど「良いなぁ」と感じさせてくれる。
 少しずつ変わる距離と季節。相手を欲張りに求める気持ちも加速する。しかしそれでも今こうやって隣に座って会話を出来ることが赤葦にとっても、名前にとっても、十分すぎるくらいの幸せなのであった。

(16.03.29)