08

「反対方向の電車に乗ったらどうなるのかなって考えたこと、ある?」

 名前の質問に赤葦は首をかしげた。その様子を見ながら名前は言葉を続ける。

「難しいテストがある日とか、クラスの皆の前で発表しなくちゃいけない日とか、体育がマラソンの日とか、ああもうやだ! 学校行きたくない! って日にね、たまに、反対方向の電車に乗ったらどうなるのかなぁって逃避することがあるんだよね」
「気持ちはわかるけれど、少しだけ意外かな」
「えっ、そう?」
「名字さんて嫌なこととか無さそうだから」
「あ、それ悩みなさそうに見えるってやつ?」
「え、ごめん。そんなつもりはなかったんだけど」
「うそうそ。責めてないよ。たまに言われるし、わりと楽天的だし」

 軽い笑みを浮かべた名前の様子に赤葦はほっとした。嫌なことなさそう。なんて言ったけれど、結局自分は彼女の好きなことも知らない。

「よく考えてみると俺たち、お互いのことよく知らないよね」

 電車が大きく揺れて、肩がぶつかる。一瞬、触れあうことさえ出来ると言うのに、きっと自分達は相手の事をほとんど分かっていないのだ。

「……知りたい?」

 少し、熱を持った瞳が赤葦を捕らえる。それは名前にとっても大きな一歩を踏み込んだ問いかけだった。

「えっと……」
「私は赤葦くんのこと、知りたいなぁ……なんて」

 それでも恥ずかしくなったのか名前は、誤魔化すように笑った。駆け引きとか、試すとか、そういうの多分自分には向いてないんだろうな、と思いながら。

「赤葦くんは彼女いる?」
「いや、いないけど」
「……そっか」

 いなくてほっとした。だけどそんな気持ちを隠して名前は平然と答える。それでも、と名前は思う。きっと彼女がいてもいなくても、好きな人がいてもいなくても、この電車に乗って彼を探す瞬間のワクワクは止まらない。到着駅までの距離が延びてしまえばいいのにという願いも、改札を出た後の後ろ姿を盗み見ることもきっと変わらない。

「……あのさ」
「うん」

 まもなく、到着駅だ。車内アナウンスがなくても、窓から見える景色が教えてくれる。それでも名前は赤葦の言葉に耳を傾けた。自分に伝えてくれる言葉を溢さないようにしたいから。

「わかるよ。俺も、ふとしたときに反対方向の電車に乗ったらどうなるのかなって思う」

 赤葦の瞳は優しかった。

「だけど、反対方向に乗ったら、名字さんに会えなくなるから」
「……私?」
「そう。朝から元気に階段を走って、髪を乱して、息を切らして、でも恥ずかしそうにしてて、だけど元気におはようって言ってくれる名字さんに会えなくなるから、俺は反対方向の電車に乗ることはないかな」

 予想外の言葉が名前の耳に届いた。嬉しい。嬉しいのに、多分嬉しすぎて言葉が見つからない。

「行こうか」

 赤葦が立ち上がり開かれた電車の入り口を見る。電車を降りてその後ろを遅れないように着いていく。高い位置にある頭。跳ねる毛先。ぶつかる肩。触れたいと、新しい感情が芽生えはじめる。

「ま、待って」

 改札を出てすぐ、分かれる前に声をかけたのは名前のほうだった。いつもはされないことをされて赤葦は少しだけ驚いた。

「え?」
「私も思うよ。朝、寝坊したり、朝御飯に時間かけすぎちゃったり、髪型がうまくいかなかったりしても、この時間のこの電車に乗ったら赤葦くんに会えるんだって思ったら、反対方向の電車には乗らないぞってなる。赤葦くんが、私におはようって言ってくれるの嬉しいから。だから……」
 
 ふと我にかえって焦る。何をこんな告白めいたことを感情に任せて伝えてしまっているのだろうか。ああ、せめて赤葦くんが引いてませんように、と願いながら名前は言葉を結んだ。

「だから、えっと、赤葦くんと友達になれて本当によかった!」

 これ、いろいろと間違ったかもしれないと後悔の念に駆られる名前を見て呆気にとられた赤葦だったが、もう堪えきれないと言うように笑った。それは名前が初めて見る、満面の笑みだった。

「え、ここ笑うとこ?」
「ごめん。だって、つい。……名字さん一生懸命に伝えてくれるから」
「自分でも恥ずかしいなって思ってる……」
「いや、ううん。そうじゃなくてさ、なんていうのかな。嬉しいよ」
「えっ」
「名字さんと仲良くなれて、俺も嬉しい」

 一目惚れ見たいにビビっと恋に落ちたらわけではない。だけど確かに、ゆっくりゆっくり積もるその感情は名前の胸に優しく語りかける。長く焦がれていたわけではない。想いに眠れぬ夜が来たわけでもない。それでも、この感情は。暖かく芽吹く、この感情は。

「わ、私、知りたい。赤葦くんのこと、いろいろ知りたい」

 恋と言うのだろう。

(16.04.13)