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幾つかの悲劇さえ


先程子供達から聞いた話によると、その記憶喪失の女性は警察に保護されているそうだが、パニックを起こした際に何やら酒の名前を呟いていたらしい。

ならどうせ行く予定だった東都水族館に向かうか、とその方向に足を進めようとした瞬間、前方に赤いマスタングを見つける。

そこには、変装をしていない“赤井秀一”が、デジャヴかと見紛う姿で車に凭れていた。
また、性懲りも無くこの男は私を誘拐しようとしているのだろうか。

「全く、手のかかるお嬢さんだな」

彼は私に手を伸ばそうとしたので、妃先生に習った柔道の技を繰り出そうとするが、その手は空を切り、彼に捉えられてしまう。
そのまま腕を引かれ、無理やり横抱きにされた。

「柔道か。筋は良いようだが、そんな細腕では無理だ…大方、安室君が心配で様子を見に行こうとしているんだろうが…君一人では行かせられないな」

「また、コナンくんですか…降ろしてください…」

コナンくんは一体何者なのだ。彼の連絡一つでこのようなヤバそうな男を動かせるというのか。

「断る」

「私、重いですから…降ろしてください」

先程の護身術が通用しなかったところから鑑みて、今この状態で暴れても私に勝ち目はない。
理路整然と彼の同意を得られるようなプレゼンをすることが、この腕から逃れる唯一の方法だと私は判断したのだった。

「安心しろ、そんなヤワな鍛え方はしていない」

赤井さんはニヤ、と笑う。
そういう問題じゃない!と怒ろうとしたが、彼がすごく真面目な顔になったので私は黙り込んだ。

「実は公安警察からNOCリスト…つまり世界中のスパイのリストが盗まれてな。俺なら、君の大切な安室君を助けてやれるが…条件がある」

少しボリュームを下げ、赤井さんは私に言った。内容的に聞かれると不味いものであることは、ど素人の私だって分かる。

「条件?」

「君が大人しく俺の車に乗り、余計な手出しをしないことだ…」

「…分かりました…」

零が昨晩世界が終わりそうな顔をした訳がやっと分かった。
彼が公安警察だとバレれば組織に消されるかも知れないからだ。

赤井さんについて行くのは癪だが、私より彼の方が零を助けられる確率が高いことだけは、非力な自分が一番よく分かっている。
私は悔しさで唇を噛んだ。

「そんな顔をするな…君は、笑っている方がいい…」

赤井さんは私を車に乗せながらそう言った。

「赤井さん」

「なんだ」

「透さんを、助けて…お願い」

「あぁ」

赤井さんは思い切りアクセルを踏んだ。
ギュルギュルとすごい音を立ててマスタングが走り出す。

「もし安室君が死んだら…俺が責任を取ってやるから安心しろ…」

「え?」

「独り言だ…お前は知らなくていい。急ぐぞ、舌を噛まないよう黙ってろ」

こちらを見た碧眼に、私は頷くしかできなかった。


ボウヤからの連絡を受け、俺は愛車を米花町方面へ走らせていた。
全く、気の強いお嬢さんだ。黒の組織に潜入したやつを助けようだなんて、私も殺してくれと言っているようなものだ。

彼女は落ち着いた様子で、俺の隣でしっかりと前を向いていたが、その安寧も十分と続かなかった。

「!!」

東都警察病院前の駐車場で、密かに事件は起こっていた。
ベルモットが、バーボンに銃を向けている。
お嬢さんが息を飲んだ気配を、俺の研ぎ澄まされた五感が逃すはずがなかった。

ここで殺るのがマズいことくらい、あの腐った林檎ラットゥンアップルだって分かっているはずだ。どこかへ連れて行くつもりなのだろう。

「…透さん…」

ポツリと消えそうな声でお嬢さんが呟いたので、俺は横目で彼女をチラリと見た。案の定、不安いっぱいで今にも泣きそうな顔だった。

「安心しろ…あの女の様子だと、安室君はまだNOCだと確定したわけじゃなさそうだ…場所を変えるはずだ。そこで、あいつを逃す」

右手で彼女の左手を握ってやると、少し震えているのが分かる。
銃刀法がある日本では、一般市民が拳銃を見る事なんかまずないと言っていい。
そりゃあ怖いだろう。あれは引き金ひとつで人の命を奪う代物なのだから。

彼女の手は、俺が握ったことに驚いて少しピクリとしたが、震えの方は幾分収まったようだった。

「怖いか」

「はい、あの人を…透さんを失うのが怖い…」

まさかの返事だった。
この跳ねっ返りは銃が怖い訳ではないと言う。

「フ、安室君は苦労するな」

俺はベルモットとバーボンが乗った車を、遠くから尾行するように車を発進させる。
彼女らが向かったのは、案の定人気の少ない海辺の倉庫だった。
俺は離れたところに車を停め、彼女に絶対出るなと言い含めて倉庫に忍び寄る。

「キュラソーが伝えてきたNOCリストにオマエ達の名前があったそうだ…」

俺はボロ倉庫の隙間から様子を伺う。
ジンが相変わらずの横柄な喋り方でキールとバーボンを脅していた。

「キュラソー…ラムの腹心か…」

「えぇ…情報収集のスペシャリストよ…外見の特徴は左右で目の色が違うオッドアイ…組織じゃ有名な話よ…」

俺は彼らの話を聞きながら、狙撃のタイミングを計る。
チャキ…っと小さな音が鳴った。

「疑わしきは罰する…それがオレのやり方だ…」

ジンは容赦なく、手錠を外そうとしていたキールの左肩を撃ち抜く。

「ほらどうした?キール…続けろよ…手錠外してぇんだろう?」

ニヤニヤと嫌な顔で笑うジンは、最後に一分間だけ猶予をやると言い出した。

撃つと決めていた照明に、照準を合わせる。

「十秒…九…八…七…六…五…四…三…二…一…」

ウォッカがカウントダウンを最後まで言い切る前に、ジンがニヤリと口角を上げた。

「ゼロ{emj_ip_0792}」

彼より少し早く、俺は引き金を引く。
精確に撃ち抜いたワイヤーはプツリと切れ、明かりを消す。

電気が消える直前、一瞬見えたジンの驚いた顔が酷く滑稽だ。

「バ、バーボンがいない{emj_ip_0793}逃げたわ{emj_ip_0792}」

すかさずスマホで闇を照らしたベルモットが叫ぶ。
どうやら、手錠からは上手く抜け出したようだった。

俺は倉庫のドアを勢いよく開け、バーボンが奴らの隙をついて逃げたかのように偽装する。

車に戻ると、お嬢さんは顔面蒼白で座っていた。

「赤井さん…透さんは?撃たれたの{emj_ip_0793}」

俺が乗り込んだ瞬間、彼女に腕を掴まれる。さっきの銃声は残念ながら聞こえてしまったようだ。

「安心しろ、あいつは撃たれてはいない」

「…あ、赤井さんも?」

彼女は澄んだ瞳でこちらを見た。
二度も自分を拉致した人間を心配するなんて、変な女だ。

「あぁ…だが、まだカタはついていない…追うぞ」

「はい」

カチッとお嬢さんがシートベルトを締めたのを確認し、俺はアクセルを踏んだ。