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セロリ記念日


悪夢から一夜明けた、朝九時を少し過ぎた頃。
眠い目を擦って起きると、なまえはいなかった。なまえがいたはずの僕の隣にはハロが丸くなって眠っており、彼女は今日は仕事だったかと僕は大きく欠伸をした。

『おはよう。私は仕事に行くけど、貴方はゆっくり休んで なまえ』

ダイニングテーブルには朝食が用意されており、隣に丁寧な字で書かれたメモを見つけてホッとする。
途端にぐぅ、と小さく鳴いた腹の虫に苦笑いしながら、なまえが用意してくれた朝食をありがたく頂く事にした。

焼き魚、出汁巻卵、浅漬け、きんぴらごぼう、味噌汁、白いご飯。

僕の目の前にはスタンダードな和食がずらりと並んでいた。
なまえはサニーサイドアップが得意だと言っていたが、今日は冷めてから温め直すのを見越して出汁巻卵にしたのだろうと僕は勝手に推理し、いただきますと手を合わせた。

今度こそはサニーサイドアップを作ってもらわなければ。彼女は何を掛けるのだろう。塩こしょうか?醤油か?はたまたソース?もし自分と同じなら嬉しい。

彼女がキッチンに立っている姿を見損ねたなぁなんて、ちょっと残念な気持ちになりながら僕は温め直した朝食を頬張る。

「あ、美味い…」

まず箸をつけたのはきんぴらごぼう。塩味と甘味のバランスが絶妙だ。
それから出汁巻卵。これまた美味い。その名の通りだしが効いていて、でも塩分は控えめ。
彼女は間違いなく繊細でな舌の持ち主だ。

僕は一心不乱に食べ進め、少し多めに作ってくれていたであろう朝食を綺麗に食べ終えてしまった。

「ふぅ」

僕が満腹の余韻に浸っていると、ごそごそと起き出してきたハロがわふ、と鳴いてお座りをした。

「食べたんだろ?」

ちらりとキッチンを見遣ると、ハロの食事用の皿は綺麗に洗われていて、彼女が起きたタイミングで食事が済んでいることが分かった。

「…ったく、仕方ないなぁ…今日だけだぞ」

今度はクゥーンと小さく鳴いた彼の期待に満ちた目には逆らえず、なまえがハロ用に買ってきてくれたおやつを与える。

相当美味しかったようで、一生懸命おやつを平らげるハロが、先ほどの自分と重なって見え、笑みを零す。

「フ…明日一緒に運動しような…」

正直、昨日はこんなに平穏な朝を迎えられるとは思っていなかった。

「ん?」

僕はふと視界の端に映った姿見に目をやる。
当然そこに映るのは寝癖まみれの自分であるのだが、昨日なまえに手当してもらった時に貼られた絆創膏と明らかに向きが変わっている。

つまりなまえは、彼女を抱き枕にしていたであろう僕の腕から抜け出し、朝食を作り、僕の怪我の手当てをし直して出ていった…ということだ。
全く気づかなかった。それほどまでに熟睡していた自分にびっくりだ。
いつも眠りが浅くアラームが鳴る直前で目が覚める僕が、彼女がいる時だけは深く眠れている。顔の絆創膏を剥がされても目が覚めないほどに。
万が一なまえがスパイだったら僕は確実に寝首をかかれているだろう。

徐々に意識がしっかり覚醒してきた僕は、昨日一方的に欠勤の連絡をしたポアロが気になって仕方なくなり、顔を出そうと決めてシャワーを浴びに風呂場に向かった。


カラン、とポアロのドアベルはいつものように鳴った。

「いらっしゃいま…安室さん!」

カウンターでコーヒーを淹れていた梓さんが僕を見るなり素っ頓狂な声を上げた。

「こんにちは…すみません、昨日…」

「今朝なまえさんに聞きました!体調崩してたんでしょう?もう大丈夫なんですか?ていうか今日安室さんシフト入ってないし…」

「あ、いえ…もうすっかり良くなりましたけど…なまえさんは朝食を摂りに?」

「いいえ、今朝は時間がないからごめんねってコーヒーだけ…でも、お昼は食べに来るからサンドイッチをお願いって言われてました…そんなに義理堅くしていただかなくていいですよって言ったんですけど」

「じゃあ僕、今から手伝いますよ」

梓さんには病み上がりなのに、と散々言われたが、昨日寝ずに看病してくれたから心配で様子が見たいと嘘を吐けば、じゃあランチはなまえさんと一緒に摂ってあげて下さいねと許可をもらえたのだった。

僕の読み通り、十三時半を少し回った頃、遅めのランチを摂りになまえがポアロに到着した。

「いらっしゃいませ」

「え、透さん?」

なまえは驚いたように目を見開いた。僕が家でゆっくりしているものだと思っていたようだから、この反応も当然か。

「すっかり良くなったんで、昨日の分も働こうと思って…それに、貴女のこと心配でしたから…僕の看病で寝てないでしょう?」

ね?と念押しすれば、そういう設定でいくのねとなまえが微笑んで小さく頷いた。

「ちょっとは寝たわよ」

「なまえさん!お席ご用意できてますよ。さぁ、安室さんも座って座って!」

梓さんに勧められるがまま、なまえはテーブル席に座る。

「透さんも?」

「私がお昼はなまえさんと一緒に食べて下さいって言ってたんです。幸い今からの時間は空いてますから」

「ごめんね、何から何まで気を遣わせちゃって…」

「いいんです!私がしたくてやってるので」

梓さんはすかさず僕が作っておいたサンドイッチとコーヒーをなまえと僕の前に置く。

あまり悠長に昼食を摂る時間もないだろう彼女は、大人しくおしぼりで手を拭き、いただきますと手を合わせてサンドイッチを頬張り始めた。

「ん?セロリ?」

「試作品なんですよ…セロリ…苦手でした?」

僕はセロリが好きだが、ハロも風見もセロリが苦手だった。匂いが強い食べ物は好き嫌いがぱっくり分かれることを、僕は経験則で学んでいた。
彼女のような繊細な舌なら、おそらくセロリが苦手であろうことも予想の範囲内。

「生のセロリは苦手だけど、これは食べれる…ううん、美味しい!」

「よかった」

「透さんすごいねぇ…」

「セロリはその独特な香りと苦味から、苦手な人間も多いんですよ…ならば、匂いと苦味を抑えるように調理してやればいい…というわけです」

なまえが目を輝かせてセロリのサンドイッチを食べるものだから、嬉しくて目を細める。

「透さん…今度、お願いが」

「なんですか」

「透さんお手製の美味しいセロリ料理、食べたいなぁって」

そんな可愛いお願い、聞かないわけないではないか。

「もちろん」

「それにしても…今日はタマゴサンドもハムサンドもトマトサンドもツナサンドもあるのね…」

「私も頂きました!」

梓さんがすかさずフォローしてくれる。
実は昨日無理を言ったお詫びにと梓さんにもまかないとしてこれらのサンドイッチを振る舞ったので、今日はたくさんの種類が作ることが出来たのだった。

「梓ちゃんのお昼が遅くなったらどうしようと思ってたの…もう食べたなら良かったわ」

なまえは安心したように笑った。

彼女が全てのサンドイッチを平らげた頃、梓さんがハートにカットしたケーキを持ってきてくれる。

「サービスのデザートですっ!」

「…へ?桃?」

「桃のチーズケーキです。なまえさん、桃お好きでしょう?」

なまえは僕の顔をじっと見た。なんで知っているのかと言いたげな顔だ。

「なまえさんは紅茶のペットボトルは大体ストレートかピーチティーを買われてますよね…それに先日、貴女はスーパーで桃を見ていましたが、初物でまだ価格が高いことと、まだ十分な甘さではなさそうであったため渋々購入を断念した…違いますか?」

「流石、プライベートアイは違うわね…降参。いただきます」

なまえはフォークで一口分に切ったケーキを頬張った。僕はその様子を見ながら、カウンターに戻りおかわりのコーヒーを淹れる。

「お味は?」

なまえと僕の前にコーヒーを置き、僕は再び彼女の正面に座った。

「貴方が作って美味しくないわけないでしょう…はい、あーん」

なまえは最後の一口をフォークで半分に割って、僕の前に差し出した。

「いえ、僕は…」

先程、ハートにカットした時に切れ端を味見と称して梓さんと食べたので味は分かっているのだが、なまえの可愛さには逆らえず僕は口を開いた。
桃の優しい甘さと、チーズの塩気が絶妙なバランスだ。我ながら上出来である。

「ね、愛情たっぷりで美味しいでしょう?透さん」

なまえがとびきり可愛い笑顔で微笑むので、僕の心臓は撃ち抜かれてしまった。僕の胸が恋の痛みを訴えている頃、そんなことを知らない彼女は、最後の一口をぱくりと頬張った。

“間接キス”

ふと、意識した。
彼女のフォークで僕が食べて、僕のフォークで彼女が食べて…。二十九にもなって高校生のようなことを考え始めた自分が猛烈に恥ずかしくなって、僕はコーヒーを一口飲んでこの妄想を打ち消そうとした。

もし、幼馴染のまま疎遠にならず仲良くしていたらこうやってデートする機会もあったのだろうか?
安室透としてではなく、降谷零として。

いや…あの時の僕では幼すぎて、万に一つ付き合えたとしてもすぐ振られていただろう。今でさえ、自分の幼さに打ちひしがれているというのに。

「…さん、透さん!」

気づけばなまえが僕の隣に立っていて、もう戻らなければならない時間だと言うことを自覚させられる。

「大丈夫?疲れてる?」

「いや…ちょっと考え事を…」

「顔色は大丈夫そうだけど…私が帰るまで無茶しないでよ?」

「!」

彼女は今日も来てくれるというのか。彼女の、“帰る”という言葉に舞い上がってしまう。やはり僕は幼い。

「じゃ、行くね」

「ええ、また後で」

なまえは僕の指に自分の指をするりと絡めてから去って行った。

きっと彼女と再会したのは運命で、僕達はお互いが成長して出会うべき時期に再会したのだ。そうであって欲しいと、僕は切に願う。

今日は君が嬉しそうにセロリを食べてくれたから、“セロリ記念日”にしようかな、なんて、僕は柄にもなく浮かれていた。