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戦いの日


今日は決戦の日、と決めていた。

決めていたというよりは、この日程は厚生労働省お役所が一方的に通達してきたもので、私が勝手に気合を入れているだけだった。

何を隠そう、このジキル薬局は開局から一年が経過しようとしていた。
新規個別指導と呼ばれる監査のようなものがあって、今日はこの為に厚生労働省に呼ばれていたのであった。
社長も一応薬局開設者という立場でついて来てはくれるが、お役所からの質問に主に回答するのは管理薬剤師である私の仕事で、疚しいことはしていないとはいえ、緊張するのは止むを得ない状況であった。
きっと刑事に尋問される犯人のような気分だろう。生まれてこのかた犯罪なんて犯したことはないけれど、なんだかそんな気がした。

久しぶりにスーツに袖を通し、私は息を吐く。
提出を求められていた書類が全て揃っていることを確認して、私は鞄のチャックを閉めた。

「スーツ姿もイイな」

私の緊張など露知らず。呑気に後ろから現れた零は上から下までまじまじと私を眺めた後、優しく抱きしめた。

「零…」

緊張のせいか、発したのは自分でも笑えるくらい弱々しい声だった。

「大丈夫だよ、なまえなら」

ちょっと待って、と零は丁寧に私の髪を一つに束ねてくれる。

「君は顔の形が卵型で綺麗だから、ポニーテールがよく似合う。特に今日みたいな日は清潔感と誠実さが求められるからね。雰囲気も大切だよ」

「あ、ありがと…」

おまけにパチンと上品なバレッタを付けてくれた零は、私の前髪を整えてから、仕上げと言わんばかりに唇に口付けを落とした。

「よし、可愛い。送ってやりたいのは山々なんだが…すまない、今日は公安の仕事で」

「いいの、気にしないで」

キスだけでおまじないにかかったような心強い気分になって、私は零にぎゅうと抱きついた。

「今日は僕の方が遅くなるかも」

「なら…うち、来る?」

「そうだな…君がいる方がよく眠れるし、そうさせてもらえると嬉しい」

「なら、ドアロックは開けておくね」

「閉めてても入れるけど」

「零さーん、それは犯罪です」

そういえば先日、ドアロックを閉めて寝た筈なのに朝起きたら零が私を抱き枕にしてぐっすり眠っていたものだから焦ったっけ。

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「アン!」

行ってきます、というおとに反応したハロちゃんが慌てて駆けてきて、私の足元にまとわりついた。
私がハロちゃんを抱き上げて、その私を零がハロちゃんごと抱き込む。玄関先で少しイチャついてから、私は彼の家を後にした。


厚生労働省にて、職員の少し厳しい顔のお爺さんと中年のおじさん、そして立会人として薬剤師会の男の先生という男性だらけの状態で私は座っていた。
隣には形式上社長が座っているが、むさ苦しさに拍車が掛かっただけで援護は期待できないなと私は溜息を吐く。

「では、ジキル薬局さんの新規個別指導…始めましょうか。ええと、みょうじ先生…ですね。お若いようですが薬剤師を始めて何年くらい?」

厳しい顔のお爺さんが、私に話しかけた。

「5年です」

「緊張していますか?」

緊張している、と言ってしまった方が楽になると心理学の本で読んだことがあって、私は正直に答える。

「は、はい…」

「ははっ、正直なお嬢さんだ。では、本題に入りましょうか」

お爺さんの厳しい顔が少し崩れて、私はホッと息を吐いた。

「では、昨年十月二十七日の毛利英理さんの処方箋…プロマックD錠が一日二回、朝・夕食後で処方されていますが、添付文書上は朝食後と就寝前の用法のみで承認されています。処方医に疑義照会はされていますか?」

「はい、履歴はここに」

私は処方箋に記入した、医師への問い合わせ履歴を提示する。

「ふむ…わかりました。では次…昨年十一月十九日の畠山有紗さんの処方箋…リーゼ錠が処方されていますが、投薬されたのは先生ですね。どのような服薬指導をされましたか?」

「眠気やふらつきが起こる可能性があるので、特に車の運転等は注意するようにお話ししました」

私は薬歴の記録を指差しながら発言する。
一応、ベイカ薬局の先輩方に確認はしてもらっていて、ここは突っ込まれると思うよと教えてもらっていたところばかりであったので少しホッとした。

その後も滞りなく新規個別指導は続き、幸いにして返戻へんれいは免れた。
返戻とは、医療行為の適否が判断し難い場合に、該当する保険請求分を薬局の収入から差し引かれるシステムである。
帰り際、窓口の横を通過すると一度紹介してもらったことがある大学時代の友人の彼氏君が私に気づいて会釈してくれたので、私も会釈を返しておいた。

「いやぁ〜みょうじちゃん流石だよ!これからも期待してるからね!!」

審査官の前ではあんなに大人しく黙り込んでた社長は、“返戻ナシ”という輝かしい成績に大喜びで私の肩をバシバシ叩いて去っていった。

「痛った〜…もう、調子いいんだから…」

私は溜息を吐いて荷物を抱え直す。

「お送りしましょうか?先生」

「!」

聞き覚えのある声に驚いて振り向くと、そこにはグレーのスーツ姿で白のRX-7に寄りかかる零がいた。

「あ、えーと…」

ここは霞ヶ関で、厚生労働省だけではなく零の所属する警察庁のあるエリア。
透さんなのか零なのか、どちらで呼んだらいいものか思案していると、私の迷いなんか瞬時に察知してしまった彼は零でいいよと笑った。

「零…なんで…」

「なまえが僕の家を出ていった時間を鑑みて…君なら一時間は余裕をみているだろうから、新規個別指導の開始時間は恐らく午後二時。そして通常、新規個別指導の所要時間は概ね一時間…君が管理するジキル薬局に限って、立ち入り監査になったりするような事態にはならないだろうから、午後三時には終わるだろう…と踏んだわけだ」

「零には敵わないわ…でも公安のお仕事だったんじゃあ…」

「僕はもう、警察庁ここでやらないと出来ない分は終わらせたけど?」

零は余裕の顔で私に微笑んだ。この顔好きだなぁと、心から思う。

「…流石トリプルフェイス…」

この男は、私が彼の家を出てから出勤したくせに高々数時間で溜まりに溜まっていた筈の公安の仕事を全て終わらせたというのか。

「なんかさ、ほら…こういうの憧れてたんだよ…仕事帰りに彼女を迎えに来て…みたいな」

自分から言いだしたくせにちょっと恥ずかしかったらしい零はモゴモゴと最後の方は言葉を濁し、それを誤魔化すように私の腕を引いた。

「わ、」

あっという間に私は零の腕の中。
零の汗の匂いがして、ドキドキする。臭いのではない、本能が刺激されてしまう匂いだ。

「零、誰かに見られたら」

「大丈夫。僕が仕事を片付けたということは、公安部の部下達は今頃死ぬほど忙しいだろうから」

零だってドキドキしているくせに、焦る私を見て嬉しそうに目を細める。
このままでは零の匂いで心不全を起こしそうだ。
私はこの状況を打破すべく、意を決して彼の首に腕を回して目一杯背伸びをした。

「ねぇ、零の匂いでドキドキして死んじゃいそうだから、早く連れて帰って」

そう囁いてやれば、次に乱れたのは零の鼓動。嘘は言っていない、ちょっと悪戯をしただけで。

「〜〜ッ!」

結局零も私も真っ赤になって、本当にいい歳して馬鹿なことをしているなと思ったのだが、作戦が功を奏したのか漸く彼は私を解放し、書類がたくさん入った私の荷物を持ってくれる。

「なまえ…反則、それ…」

「零だって」

そう言って二人ではにかむように笑うと、私達はRX-7に乗り込んだ。