
日曜日の昼下がり。
買い出しに出ていたら“鶴山さんが倒れた”と梓さんから連絡があり、僕は喫茶ポアロへの帰路を急いでいた。
僕が到着した時には鶴山さんはソファ席に寝かされており、梓さんはオロオロと落ち着きなく店内をうろついていた。
鶴山さんの上には、見覚えのあるカーディガンが掛けられている。
「梓さん」
「あ、安室さん!なまえさんがベイカ薬局に行ってくるからちょっと待ってなさいって…」
「なまえさん…来てたんですか?」
いつもポアロに来るときは連絡をくれるのに…と少し寂しく思っていると、梓さんが口を開く。
「なまえさんが来てすぐにおばあちゃまがふらついて…なまえさんが抱き止めてくださったので、頭を打ったりはしませんでしたけど」
どうやら、連絡を忘れられたわけではないらしいことだけは分かって、僕は内心ホッとする。
「そうですか、では僕達は待っていましょう」
「え!?」
いいんですかそれで!と梓さんが言うが、餅は餅屋。なまえに任せた方が良いだろうと僕は判断した。
「梓ちゃん、ごめん。遅くなって!」
数分でなまえがポアロの扉を開いて入ってくる。左肩にはトートバッグ、右手にはヒールの靴。彼女はヒールをポイと床に置き、鶴山さんの横に置いてあった椅子に座った。
「鶴山さん、大丈夫ですか?」
「…ごめんねぇ」
「ちょっと触りますね。失礼します」
なまえは鶴山さんの下瞼を引っ張ったり、血圧を測ったり、服の上から聴診器を当てたりしている。
「気分悪いとかはないですか?」
「そうねぇ、言われてみれば、ちょっとムカムカするかねぇ…」
「透さん、水で濡らしたタオルを頂戴。少し緩めに絞ってもらえると助かります」
「はい!」
僕は弾かれたように立ち上がり、なまえに言われた通りに緩めに絞ったタオルを手渡した。
「ありがとう」
なまえは鶴山さんのおでこにタオルを乗せ、梓さんを振り返った。
「梓ちゃん…ごめんね。スポーツドリンク開けるね」
「あっ、いえ!気にしないでください」
「鶴山さん、飲めますか?」
なまえは経口補水液のペットボトルを開けてストローをさし、おでこのタオルが落ちないように気を配りながら鶴山さんの上半身を起こした。
鶴山さんは頷いて経口補水液を飲む。
「無理しなくて良いですからね、ゆっくり飲んでください」
「ありがとうねぇ…」
「おそらく熱中症だと思います…何か体調の変化があったらすぐ言ってくださいね」
隣にいますからとなまえは鶴山さんの隣のテーブルに座り、持ってきた道具を片付け始めた。
僕はなまえの足元を見る。
裸足で走ってきたらしいなまえの足は、少し血が滲んでいた。
「なまえさん」
「透さん、ありがとう…って、なになに!?」
僕はなまえを横抱きで抱き上げると、鶴山さんに断ってバックヤードに彼女を連れて行く。
「ちょっと、降ろし…」
「綺麗な足が台無しじゃないですか」
僕はなまえを優しくバックヤードの椅子に座らせ、濡らしたタオルで足を拭く。
鶴山さんのために、走りにくいヒールを途中で脱いで裸足で走ったのは明らかだった。
「いいよ、そんな」
「なまえさんは黙って僕に甘やかされてればいいんです」
僕はぴしゃりと言い放つと、傷口の消毒を始める。なまえは観念したようにしょんぼりと僕の手を眺めていた。
「あ、あの…透さん怒ってる?」
なまえは眉を下げたが、そんな可愛い顔をしたって許してやらないと僕は不機嫌なまま答えた。
「なまえさんは頭の先からつま先まで全て僕のものです…それを不用意に傷付けられて僕が怒らないとでも思ったんですか?」
なまえはびっくりして目を見開いた後、顔を真っ赤にして俯いた。
「なまえさん?」
まだ怒ってるんだからな、と思いながらも僕はなまえの手当てを終えて彼女の顔を覗き込む。
「そういう恥ずかしいことさらっというの、反則…って、恥ずかしいから、だめ!」
僕が口付けようと背筋を伸ばすと敢え無くなまえの手に阻まれてしまった。その手を退かせるべく僕が彼女の細い腕を掴んだ時、か細い声がバックヤードの入り口から聞こえてきた。
「あ、あの…お邪魔してすみません…安室さん…」
振り返ると顔が茹で蛸のように真っ赤になった梓さんが立っていて、それで口を塞がれたのかと理解した僕はなまえの頭を撫でて立ち上がった。
「梓さん…どうしました?」
「あの…マスターが今日はもう上がっていいって言って来いと…」
「そうですか、ありがとうございます…では、お姫様にアイスコーヒーを飲ませたら連れて帰りますね」
「は、はい!コーヒーの準備しておきますッ!」
梓さんがバタバタと出て行ってから、なまえは僕を睨んだ。真っ赤な顔なので全然怖くない。
「なまえさん、これを」
僕は自分のロッカーから新品のストッキングを出して渡す。
なまえは僕からそれを受け取りながら何かを思案するように眉間に皺を寄せた。恐らく、僕のロッカーから女物のストッキングが出てきたことで前の彼女のものだろうかとかモヤモヤしているに違いない。
そのくるくる変わる表情可愛くて、僕はフ、と笑いを零す。
「ここまで毎日モーニングを食べにきてくれるのは嬉しいですが、なまえさんは人間だけでなく動物にも好かれますからね。先日、出勤前に大尉の爪が引っかかってストッキングが破れたじゃないですか…それで、万が一に備えて置いておこうと思って」
そう言うと、少し納得したようなしていないようななまえは不服そうに口を尖らせた。
「…透さんって、一歩間違えばストーカーよね…」
僕が背中を向けると、なまえはストッキングの包装を開けながらそう言った。確かにそれは、彼女が普段履いているメーカーのもので、サイズも色も彼女の脚にぴったりだった。
今回ばかりは、僕の詮索癖が役に立ったと言っても過言ではない。
「僕にとっては褒め言葉ですね。でも、色番はなまえさんの脚を普段から見ているので、違うメーカーのものでもどれがぴったりかすぐ分かりますよ?」
「もう、いい…恥ずかしいから黙って」
ストッキングを履き終えたらしいなまえは、僕の背中にコツンと額をぶつけた。どうせならこのストッキングのご褒美に抱き締めてくれたっていいのにと思いながら僕は振り返って彼女を再び抱き上げた。
「ほら行きますよ、お姫様」
靴を置いてきてしまったので、仕方ありませんよねと付け加えてなまえを黙らせると、カウンター席の椅子に彼女を座らせて、シンデレラよろしく彼女にパンプスを履かせてやる。
いつの間にかやってきていた女子高生グループのギャーという絶叫にも似た声が背後からして、彼女はまたやられたと言った感じで表情を曇らせた。
「いいねぇ、王子様みたいだねぇ」
「でしょう?安室さん、なまえさんにメロメロで!」
「妃先生に写メしなきゃ!」
少し顔色が良くなった鶴山さんと梓さん、つい今しがたやってきたらしい栗山さんが微笑ましく僕達を見ていた。
「鶴山さん、顔色だいぶ良くなったみたい」
なまえはホッとしたように呟いた。
「貴女のお陰ですよ、ありがとうございました」
僕はなまえのドリンクを用意するべくカウンターの中に入る。
時間はお昼を少し回ったくらいで、彼女も休日のランチをするつもりでここに来たのだろうが、僕が早上がりの許可が出たので何処かで一緒に食べてもいいかなと考えていた。
ただ、彼女の血糖値は下がっているだろうから…と僕は頭をフル回転させ、カフェオレを用意する。
「安室さん、なまえさんはいつもブラックのアイスコーヒーじゃあ…?」
梓さんが僕の手元にミルクが用意されているのを見て不思議そうに尋ねた。
「いいのよ、透さんは私の事お見通しだから」
「え?え???」
「鶴山さん、気分はどうですか?」
なまえは先程からチラチラと気にしていた鶴山さんに近付き、様子を確認する。
「随分良くなったよ、ありがとうね」
「これ、良かったら持って帰ってください。いつもポアロに来てくださってるのでささやかですがお礼です」
先程薬局から持ってきたトートバッグから先程の経口補水液と同じシリーズのゼリーを1本ずつ取り出し、鶴山さんに手渡した。
「なまえちゃん、悪いねぇ」
「今日は折角のティータイムが台無しになっちゃいましたけど…また来てくださいね」
なまえは飛び切りの笑顔でそう言うとカウンターに戻り、僕が用意したカフェオレを飲み始めた。
「なまえさん、ありがとうございます」
「いいのいいの。鶴山さんにはいつも楽しいお話聞かせてもらってるから」
「それ、飲み終えたら僕もあがります。お昼は何が食べたいですか?」
「んー…」
なまえにしては珍しく視線を泳がせている。何かを言いかねているようにも見えて、僕は彼女の次の言葉を促すように首を傾げた。
「特に何ってのはないんだけど…透さんのご飯が食べたいなって」
「!」
なまえが可愛くてきゅう、と胸が苦しくなる。
「ちょっと買い出ししてきます。15分くらいで戻るのでなまえさんはゆっくりしていてください」
「はい」
僕は梓さんに先にあがらせてもらう旨を断って車のキーを掴む。
冷蔵庫に何もないわけではなかったが、つい先日、試してとても美味かった日本酒のフランベ料理をなまえ食べさせたいと思っていた。
先程買い出しに出ていたスーパーは酒の品揃えが豊富で、フランベに合いそうな地酒はチェック済みだ。
彼女が店よりも僕の手料理が食べたいと言ってくれたことが嬉しくて堪らなくて、思い切り緩む頬を押さえながら車を発進させたのだった。