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有給休暇の行方


「そういえば、今度の連休ですが…」

「あ、ごめん…その日は禁煙指導薬剤師の更新が…」

すっかり、朝のポアロの常連となったなまえをデートに誘おうかと思ったのだが、僕の休日と彼女の休日が合わずすれ違いばかり。

薬剤師という職業は、業務以外にも勉強だの学会だので忙しいらしい。

「その次の連休は糖尿病学会でしたっけ?」

「ごめんなさい…」

予定を確認しただけなのに、なまえはしゅんと落ち込んでしまった。

「いえ、すみません…僕が少し寂しかっただけですから…」

気にしないでください、と言いながらなまえのためだけのモーニングセットを出す。
今日はスクランブルエッグもハート型にしたというのに、どうも気合いが空回りしていて情けない気持ちになる。

モーニングセットのお皿から離そうとした手を、彼女に掴まれる。

「ね、」

「はい?」

「あの…会社から、有給消化しないかって言われてるの…それで…よかったら透さんのお休みに合わせて休もうかな、なんて…」

だんだん赤くなったなまえが俯いた。落ち着きなくその瞳は瞬きを繰り返している。
辿々しい誘い方だったが、僕のハートを撃ち抜くには充分な破壊力だった。

「待って!すぐにシフト確認してきます!」

ギュッと彼女の手を握り返すと僕は慌ててバックヤードに駆け込む。
ただならぬ雰囲気に、今し方出勤したばかりの梓さんが、エプロンを握りしめたままギョッとした顔で僕を見た。

「あ、安室さん!?」

「すみません、デートの予定が決まりそうで!」

僕が握りしめたポアロのシフト表を掲げると、梓さんの顔がパァっと輝く。

「わぁ良かったですねぇ!私、いつでも代わりますからね!!」

梓さんはグッとガッツポーズをした。まるで自分のことのように一緒に浮かれてくれる梓さんに心から感謝する。
こんなに浮かれて自分でも馬鹿みたいだと思うが、それくらい嬉しいのだ。

「いつにしましょうか?」

ニコニコとなまえにシフト表を見せると、今度は驚きで目を瞬かせている。

「あの…透さん…そんなに急がなくてもお休みは逃げないよ?」

「善は急げ、です」

「なまえさん!おはようございます!ささ、安室さんの仕事は私が引き受けますからゆっくり決めてくださいね」

梓さんが加勢してくれたので、僕はありがとうございますと素直に礼を言ってなまえの隣に腰かけた。

「なまえさんには分からないでしょうけど…僕、今嬉しくて死んでしまいそうです」

「ふ、ふふっ…」

なまえが急に笑い出し、僕はキョトンとして彼女を見た。

「ごめん、あの…透さん忙しいし迷惑かなと思って言うの躊躇ってたの…馬鹿みたいって…ふふ」

こんなに喜んでくれるなら早く言えばよかった、と僕の大好きな笑顔でなまえは笑った。
今、誰もいなかったら抱きしめて離さないのにな、と僕は苦笑する。

僕だけがドキドキしているようで癪なので、彼女が食べようと掬ったスクランブルエッグを横取りした。

「!」

「…間接キス…」

ボソッと耳元で囁くと、なまえは信じられない!と説得力のない真っ赤な顔で怒っている。

「デート、楽しみですね」

なまえのスケジュール帳の“有給取る”の文字を見て、僕は頬が緩む。

「透さん疲れてるみたいだし、お家でゆっくりでもいいけど」

目の下にクマ。
そう言ってなまえが僕の頬をなぞり、後ろの女子高生のテーブルから悲鳴が上がった。
はた、と僕達以外の客の存在を思い出して慌てて手を引っこめようとした彼女の手を押さえ、ハロが撫でて欲しい時にするように頬をこすりつけた。
先程よりも大きな、絶叫に近いような悲鳴が店内に響いたが、僕は敢えて聞こえないふりをする。

ちょっと!となまえが口の動きだけで僕を牽制するが、僕はお構いなしに彼女の手をギュッと握る。

「名残惜しいですが…そろそろ時間ですね」

「やだもうこんな時間!」

今日こそはゆっくり味わって食べるつもりだったのに!となまえは慌てて残りのスクランブルエッグとパンを口に入れる。
いつでも作ってあげるのに、いちいち可愛いなぁと僕は目を細めた。

「なまえさん!これどうぞ」

なまえが鞄をひっ掴んだ絶妙のタイミングで、梓さんが僕がこっそり置いておいたサーモボトルを彼女に渡す。

「え?これは…」

「えへへ、安室さん特製カフェオレです!」

「梓ちゃん、ありがとう」

なまえは梓さんに礼を言ってサーモボトルを鞄にしまうと、僕の方をくるりと振り返って言った。

「透さん、ごちそうさま。行ってきます!」

そう、破壊力抜群の笑顔で。

反則だ…僕はまんまとなまえのトラップに引っかかってしまい、その場で赤くなる頬を隠すように前髪をぐしゃりと掴む。
急に僕が動かなくなったので梓さんに心配されるが、キュンとしただけなので大丈夫ですと断って僕は彼女が綺麗に食べ終えたお皿を引いてカウンターに戻る。

「!」

飾り付けに乗せておいたパセリが、お返しとばかりにハート型に整えられていることに気づき、僕はまたニヤつく顔を隠すように流しの蛇口を勢いよく捻ったのだった。


秋は気候も良いせいか、学会やら認定の更新やらで私の休日は埋まっていた。私は自宅でスケジュール帳とにらめっこ中である。

「どうしよう…」

全然透さんと予定が合いそうにない。というか、そもそも休みがない。

「でもこれは…」

私は何年も粘ってこの度やっとチャンスを得た糖尿病学会の参加証とにらめっこしていた。透さんといえど、この千載一遇のチャンスには勝てない。
学会は幸いにして横浜であったので、彼より早く帰宅して晩御飯くらいは作ってあげられるだろうとは考えていた。

翌日、案の定…といえば申し訳ないのだが休日の予定のすり合わせが始まって、透さんは少ししょんぼりした顔をした。そういえば先日社長が店にチラリと顔をのぞかせて、みょうじちゃん有給いっぱいあるけど使わなくていいの〜?なんて聞いてきたのをふと思い出したが、こういうのは自分から言いだしていいものだろうか。旅行でもないのに彼氏と一緒に過ごすために有給使うなんて重たい女と思われないだろうか。

「どうぞ」

透さんが私のためだけのモーニングセットをカウンターテーブルの上に置いてくれた。私は何と言い出すべきか、どう言うのがベストなのか何も考えずに彼の手を掴んでしまって、心の中で少し後悔する。

「ね、」

ふとプレートに目を遣ると、スクランブルエッグがハート型に成形されている。彼だって、一緒に過ごす休日を楽しみにしてくれているのだ。言ってみる位はいいかもしれない。

「はい?」

「あの…会社から、有給消化しないかって言われてるの…それで…よかったら透さんのお休みに合わせて休もうかな、なんて…」

嗚呼、なんて可愛げのない言い方だろう。私は何も策を練らずに発言しまったことを今度は激しく後悔した。まるで君のために休みを取ってやるみたいな言い方だ。
どうしよう、嫌な気持ちにならなかったろうか。普段ならもっと考えてから発言するのに。
私は明らかに挙動不審な状態で俯いてしまう。

だが、その妙な沈黙を破ったのは、透さんだった。

「待って!すぐにシフト確認してきます!」

彼は普段からは考えられない慌てっぷりでバタバタとバックヤードに駆け込む。直前、ぎゅうっと握り返された手の強さで、彼が喜んでいるのだとやっと理解できた。

程なくしてシフト表を握り締めた彼がバックヤードから出てくる。

「いつにしましょうか?」

食い気味に聞いてくる彼に、今度は私がたじろぐ番。嫌なわけではないのだが、グイグイ来られると引いてしまう、日本人の哀しい性である。

「あの…透さん…そんなに急がなくてもお休みは逃げないよ?」

「善は急げ、です」

「なまえさん!おはようございます!ささ、安室さんの仕事は私が引き受けますからゆっくり決めてくださいね」

出勤したばかりであろう梓ちゃんも加勢して、透さんは私の隣に座った。私はスケジュール帳に“busy”と書いてある日を除き、透さんのシフト表とすり合わせた。

「なまえさんには分からないでしょうけど…僕、今嬉しくて死んでしまいそうです」

透さんがあまりにも嬉しそうに言うものだから、私は今までうじうじ悩んでいたのが馬鹿らしくなって、とうとう笑いがこみ上げてきた。

「ふ、ふふっ…」

彼は目を丸くして私を見る。

「こんなに喜んでくれるなら早く言えばよかった」

そう素直に伝えれば、透さんは私の大好きな優しい笑顔で微笑んだ。
少し気分が落ち着いて、愛情たっぷりのスクランブルエッグを一口、口に含んだ。優しい塩気と甘さが広がって、一層幸せな気分になる。
もう一口…とスプーンで掬うと彼の手が伸びてきて、私の手ごとスプーンを掴み、スクランブルエッグを横取りした。

「!」

「…間接キス…」

他のお客さんには聞こえない小さな声で彼が囁く。分かっているのに改めて言われると恥ずかしくてたまらない。もう!と怒ってもこの赤い顔では説得力ゼロ。

「ねぇ、この日は?」

「いいですよ…どこか行きたいところはありますか?」

楽しみですね、と微笑んだ彼の目の下のクマが少し気になって、私はまた何も考えずに彼の頬に指を滑らせた。

「透さん疲れてるみたいだし、お家でゆっくりでもいいけど…ほら、目の下にクマ…」

テーブル席の方から女子高生の悲鳴が聞こえて、やってしまったと焦った私は手を引っ込めようとするが、悪戯っぽく笑った透さんが私の手を掴み甘えるように頬を擦り付けたので、今度は更に酷いギャーという悲鳴が上がった。

ちょっと、と口の動きで彼に抗議するが、彼は意に介さないといった風にニコニコと笑って私の手を握った。

「名残惜しいですが…そろそろ時間ですね」

そう言われて私は腕時計に目を落とす。
いつの間にか、もう出ないと間に合わない時間になっていた。

「やだもうこんな時間!」

私はバタバタと出る準備をし、透さんにお礼を言って店を出た。スクランブルエッグのお返しにパセリをハート型にしておいたけれど、彼は気づいたかしら。

「あ、社長ですか?みょうじです…おはようございます。有給の件で…ハイ」

善は急げ。
透さんの言葉を反芻して、私は職場までの道すがら社長に電話を掛け、“恋人と過ごすための休日”を勝ち取ったのであった。