
少し不快な汗で目が覚めた。
僕は机に突っ伏して眠っていたようである。
ここは米花図書館…か?
「もう、目を離したらすぐ寝るんだから」
そう言われて視線を上げると、帝丹高校の制服姿のなまえが呆れたように僕を見ていた。
ん?制服姿?
「…え?」
僕は頭がついていかずにただぽかんと彼女を見ていた。
「え?じゃないでしょう…勉強教えてって言ったの零じゃない。ほら、汗拭いて」
なまえは僕にタオルハンカチを渡してくれる。
ふと自分の服に目を落とすと、見覚えのある黒い詰襟の学生服。夏なので流石に詰襟は着ていないがこの肌触りの悪いスラックスは間違いなくあの時の学生服だ。
よく見れば彼女の顔立ちは今より少し幼い。そして、エレーナ先生とお揃いの眼鏡には、今と違って度が入っていることがわかる。
どうも僕は都合のいい夢を見ているようだが、どうせなら楽しむべきだろうか。
先日、コートの妖精なんて話を毛利先生から聞いてしまったからかも知れない。
「ごめんごめん」
「疲れてるなら寝ててもいいけど。昨日、ボクシング部の試合に助っ人で出て疲れてるんでしょう?ヒロから聞いた」
そう言ってなまえは自分の手元に視線を落とす。
僕も自分の手元に目を落とせば、どうやら化学の勉強をしようとしていたらしかった。
昔、彼女はヒロとも遊んでいたから彼の事も知っているのだった。
いつか、言わなければならない。ヒロのことも。でも悲しい現実からは彼女を遠ざけておきたい僕は、彼女の口からヒロの話題が出てくるまでその事は伏せておこうと心に決める。敢えてその話をして彼女を悲しませるような事はしたくなかった。
「過酸化水素が酸化剤として働くときの半反応式書いて、ほら」
なまえがそう言うので、僕はうーんと悩んで過酸化水素は水素が二つ、酸素が二つだったなとノートに書いたものの、その後が思い出せない。
酸化…酸素が増えるんだったか。
「さっきまで書けてたはずなのに…寝たら忘れちゃった?」
なまえは僕の右隣に座り直し、酸化剤、還元剤と小さく書いた。
僕にとってはそれどころではない。
サラサラと柔らかそうな髪からはフローラル系のシャンプーの香りがするし、化粧をしない彼女の少し幼い顔は、白く肌理が整っている。
こんなに可愛くては心臓が持ちそうにない。
「酸化剤ってことは、相手を酸化するんだから自分は還元されるのよ。還元ってことは電子をもらう反応だから…」
少しずつ思い出してきた。僕は邪念を振り払うようにシャープペンシルを掴み、ノートに書き出していく。
「こうだったか?」
「そうそう」
できるじゃない、と笑った彼女が可愛くて、僕はとうとう我慢できずに口付けた。
「っ、」
「可愛くてつい…大丈夫、僕達しかいないから」
「そういう問題じゃない!」
なまえは顔を真っ赤にして怒っているが、全然怖くない。寧ろ可愛い。
「零、疲れてるのに無理に私の受験勉強に付き合わなくていいのよ?学年主席なんでしょ?ヒロが言ってた」
ヒロは何でもかんでもなまえに教えてしまっているらしかった。二人の仲の良さに嫉妬しそうになるが、ヒロが学校も学年も違う彼女を気遣って色々僕のことを教えてやっているのは明白で、僕は幼い嫉妬を心の底に沈めた。
「僕は警察官になりたい…だからもっと勉強しないといけないんだ」
「…わかった。でも、今日はもう終わりにしよ」
なまえは参考書を片付け始めた。
「え?」
「疲れてるみたいだし、今日はもうちょっとしたらヒロと待ち合わせの時間だから」
「ヒロと?」
「零も。夏休み明けの実力テストの山かけするんでしょ」
もう、寝てる間に記憶喪失になったみたい。そう言って彼女は全ての参考書を鞄に入れ、立ち上がる。
僕も慌てて鞄に荷物を押し込んで立ち上がり、彼女の荷物を掴んだ。
「持つよ、重いだろ」
「ごめんね、いつも」
いつも、という言葉で高校生の自分が一応恋人の荷物を持ってやれる人間であったことに安堵した。
そのまま手を繋ぐと、なまえが驚いたようにこちらを見た。
「何だよ」
「ヒロも一緒の時は揶揄われるから手を繋ぐの嫌って言うのに」
今の僕なら見せつけるために繋ぐのに…と思ったが、昔の僕はそうだったらしい。ちょっと情けない。
「今日は繋ぎたい」
「はいはい」
ヒロとの待ち合わせは近所のダニーズだと言うので、僕達は図書館からずっと手を繋いだまま歩いていた。
自転車が通るとか、人とぶつかりそうとか、僕が事あるごとになまえを庇うものだから、彼女は不思議そうに僕を見上げた。
「零…?なんか、今日いつもと違うよ?」
言えるわけがない。中身だけ二十九歳の僕だなんて。
先程図書館の自動ドアに映った自分は高校生そのもので、幼さに少しうんざりしたばかりであった。
「そんなことないよ」
「そう?…そういえば背、また伸びたよね…もう私が背伸びしても届かないや」
なまえが残念そうに言うので僕は屈んで彼女のおでこに自分のそれをくっつけた。
「そんな可愛いことばっか言ってると…」
「!」
驚きでどんぐりのようにまあるく見開かれた瞳が僕を捉えた。
「ゼロ!なまえ!なーにイチャついてんだよ」
遠くから僕達を呼ぶ声が聞こえ、このままキスできたらよかったのにと残念な気持ちを押し込めて僕は彼女から身体を離す。この懐かしい声は、ヒロだ。
振り向くと、ダニーズの前でギターケースを背負ったヒロが手を振っていた。
「今行く!…ったく、いいとこで邪魔しやがって…なまえ、行くぞ」
「うん…」
なまえの乱れた髪を梳き、ヒロが手を振る方向へ進み掛けたとき、ふ、と僕の意識は遠のいた。

次に目覚めたのは、ベッドの中。
腕の中には小さなぬくもりがあって、安堵する。
やはりあの甘酸っぱい夢は僕の脳が作り出した都合の良い内容であったようだ。
「ん」
なまえが身動ぎして僕の方へ転がった。顔は髪に隠れて見えない。
僕はその髪を耳にかけてやる。
触り心地の良さは夢の中のそれと変わらない。
時刻はまだ起きるには少し早い時間。このままベッドから出て彼女の可愛い寝顔を見逃すのは惜しい。
僕は強く抱きしめてしまいたい衝動を抑えながら、ずっと彼女の寝顔を眺めていた。