
「降谷さん」
トントン、と肩を叩くと未だ熱に侵された目が開く。
「立てますか?車まで少し歩きますよ。ふらつくようなら凭れてもらって良いので」
「すみません」
降谷さんは私の手を掴み、立ち上がった。彼は少しふらつきながらも、なんとか車に乗り込む。
乗り込んだらまたウトウトし始めてしまったので、私は諦めて車を出した。
車窓を夜の住宅街が流れていく。車なんて久しぶりに運転した上に、助手席には今日初めましての患者さん。
あまりの違和感に私は苦笑いを零す。
「変なの…」
その呟きは、ウトウトしている降谷さんに届くことはなく、夜の闇に消えた。
十分もしないうちに、彼の住んでいるであろうマンションに到着する。
「降谷さん、降谷さん。此処であってますか?」
「ん…あ、はい」
助手席のドアを開けて降谷さんを降ろしたら終わり…の筈だった。
そう、彼が大きくふらつかなければ。
「あ、っぶな!」
降谷さんがこのまま後ろに転んだら、確実に車のドアに頭をぶつけていたであろう。
怪我をさせるまいと思って降谷さんの腕を引っ張ったお陰で彼の頭が割れる大惨事は免れたが、私達は盛大に縺れて転んだ。
「いった、」
「っ、すみません大丈夫ですか」
尻餅をついた私に覆い被さるように降谷さんが転んだので、流石に彼の意識も浮上したらしい。
この無駄に整った顔は、至近距離では心臓に悪いことこの上ない。特に、男性に免疫のない私には。
「ッ!とりあえず退いて…ください…」
胸板を押すと、今の状態を理解したのか降谷さんは慌てて身体を退けてくれた。
「す、すみません」
「私こそ支えきれないのに引っ張ってすみませんでした…怪我はありませんか?立てますか?」
私は慌てて立ち上がると、彼に手を差し出す。
「はい、ありがとうございます」
“仕方ない”、とはなんと便利で残酷な言葉だろうか。
早く帰りたいという気持ちを押し込め、私は降谷さんを支えてマンションの自動ドアをくぐった。
ボーッとしている彼に鍵を出させて、やっと部屋へと入る。
どうやら一人暮らしのようであるが、部屋はとても綺麗に片付けられていた。
「冷蔵庫、借りますね。降谷さんは着替えてください。汗が冷えて悪化します」
「何から何まですみません…」
「いいから、早く」
降谷さんを寝室であろう部屋に押し込め、先程車を取りに行った際に購入した数本のスポーツドリンクとアイスを冷蔵庫に押し込む。
押し込んだと言っても、冷蔵庫の中は自分の部屋のそれより随分綺麗に片付けられていて、彼が所謂“お料理男子”であることが伺えた。
「あの…みょうじ先生」
申し訳なさそうな降谷さんが寝室から顔を出したのは、五分程経ってからだった。
薬局で飲ませた解熱剤が少し効いてきたようで、白いTシャツに白のスウェットに着替えた彼は幾分顔色が良くなったようだった。
こんなに意識が朦朧としているのに、一応私の名前は覚えてくれたらしい。
「降谷さん、はいこれ」
私は買っておいたスポーツドリンクのうち、冷蔵庫に仕舞わずに置いていた一本を彼の手に押し付けた。
「え」
「あなた、凄い熱ですよ…汗もかいてるし。解熱剤はさっき飲んだからもう少ししたら楽になる思うけど…脱水症状を起こしたらいけないから飲んでおいてくださいね」
「………」
「冷蔵庫に何本か入れてありますから。冷凍庫にはアイスも」
「本当にすみません、今度何かお礼を」
「気にしないでください。もう私に会わないこと、がお礼ですからね」
「ッ、」
少しだけ彼が傷ついた顔をしたような気がして、何故か心がざわついた。
大切なものを傷付けてしまったような、そんな感覚。
「あ…ごめんなさい。言い方を変えます。あなたが嫌なわけじゃなくて…薬局のお世話にならないことがお礼ですって言いたかったんですけど…」
そう言ったら、今度は目を丸くした後、安心したように微笑んだ。
今日はインフルエンザによる発熱で意識朦朧としていたようだが、意外と表情豊かな人なのかもしれない。
「そういうことでしたか…こちらこそすみませんでした」
「いえ、では私は帰りますので…明日からお仕事は休んで、解熱後二日開けてから出勤してください。残りのお薬はキッチンに置いてますから」
一息に言い切って、私は降谷さんの家を後にした。
たまたま来た重症患者。若くて鍛えているようだったし、恐らくもう二度と会うことはないだろう。
その程度にしか思っていなかった。
彼が私の人生に大きく関わる人物だなんて、この時は考えもしなかったのだ。