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あの日の海へ


「んー」

眠くて眠くて堪らない。
私は白み始めた窓の外の光を避けるようにもぞもぞと零の胸の中に潜り込んだ。
恐らく既に起きている零が、ふっと笑う気配がして、優しい手で背中を撫でてくれる。
私はうとうとと襲い来る睡魔に身を委ねた。


ぼんやりと私の意識が浮上した頃には、今度は零の腕の力が抜けていた。少しでも動いたら彼を起こしてしまいそうで、私は再び瞼を閉じる。
何時くらいだろう?外の明るさから朝の九時は越えていそうだ。
まぁ今日は二人して寝坊すると決めている日なので、時間は関係ないのだが。

「なまえ…」

名前を呼ばれて彼をちらりと見遣ったけれど、聞こえるのは規則正しい寝息だけ。
寝言でさえ名前を呼ばれたのが嬉しくて、私はニヤつく頬を隠すようにもうひと眠りしようとした。今日は零が寝たいだけ寝かせてあげたい。

「わふ!」

しかしそんなささやかな願いも叶わず、ハロちゃんがベッドの上に飛び乗った。
どうも私が起きたと分かったらしい。

ぐりぐりと頭を私の身体に擦り付けてくるのは、お腹が空いたというアピール。

「シー、ちょっと待って」

そう小声で言って零の腕からどうやって逃れようか悩んだ時だった。

「…大丈夫、もう起きた」

もぞもぞと零が動き、私の額に口付けた。

「ごめん、起こしたね…」

「問題ないよ。しかしよく寝たな…」

零につられるように見た時計は午前十時を少し過ぎていた。昨日布団に入ったのが午前零時だった筈で、単純計算では十時間寝たことになる。

「…起きてたよね?途中」

「なまえがむにゃむにゃ言ってて可愛いから起きたけど…すぐ落ちた…君は最高級の抱き枕だな…」

「…そう?」

「最近寝られなかったんだ、全然…アラームが鳴る前に起きるし…君がいると子供みたいに安心して、寝汚くなる」

そう言ってへらりと笑った零の顔を見れば、確かに先日ポアロで見たあのクマは消えていた。

「今日は行きたいところがあるんだ…付き合ってくれるか?」

「わかった」

「場所は着いてからのお楽しみだけど…あの水着は着ておいて」

「了解」

私は昨晩零に脱がされ床に落ちてしまったルームウェアを申し訳程度に羽織り、先日着そびれたが零に買い換えるなと懇願されたあのビキニをクローゼットから引っ張り出した。
三十路のおばさんがこんな可愛い水着着てたら猥褻物陳列罪とかで掴まらないだろうか。
暫し悩んだ後、私はそのビキニとその上から着るワンピースを持ち、シャワーを浴びるためにバスルームに向かった。


むにゃむにゃと僕の名前を呼びながら、眩しいのか眉間に皺を寄せて僕の胸に縋り付くなまえが可愛くて、もう少し見ていようと思ったのに彼女の体温に安心しきった僕はすぐに寝落ちた。

腹ペコのハロに起こされる不測の事態に陥ったなまえは少し不服そうだったが、彼女という最高級抱き枕があるのに目が覚めたということは、寝過ぎて眠りが浅くなり始めていた証拠だと思う。
僕はぼんやりふわふわした頭で、彼女に風呂を先に譲った。ハロの朝飯を先に用意してやるが、彼は僕らと一緒に食べたいようで大人しく器の前で待っている。

「食べてもいいんだぞ?」

「…」

僕は愛犬の健気な姿に目尻を下げながら、僕達の朝食を準備する。
今日は洋食にしよう。
僕はトースターに食パンを入れてから、卵を割り、溶いた。
いつもポアロで『ゆっくり食べたかったのに!』と掻き込んで出て行くスクランブルエッグを今日は堪能させてやりたかった。

「お風呂お先でした」

なまえが肩にタオルを掛けた状態で出てくる。
少し緩めのネイビーのマキシワンピースは、彼女の白い肌を強調していた。

「あら、ハロちゃん食べないの?」

なまえはご飯皿の前で腹ペコを我慢してちょこんと座るハロに、不思議そうに首を傾げた。

「僕達と一緒に食べたいらしい」

そう僕が言うと、なまえは柔らかい顔で笑ってハロを撫でた。

「そっかそっか…もうちょっと待ってね」

「なまえ、皿取ってくれるか」

「うん。いつもの白いのでいい?」

「あぁ」

なまえから受け取った皿に、朝食を乗せていく。スクランブルエッグ、トースト、温野菜、キウイ…
僕はテーブルに皿と用意しておいたアイスコーヒーを配置する。カトラリーとバター、先日購入したばかりで食べるのを心待ちにしていたレモンマーマレードはなまえが持ってきてくれた。

「じゃあ、いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

「アン!」

僕らが食べ始めた瞬間、待ってましたと言わんばかりにハロがお皿に顔を突っ込んだ。なまえはそれを見て蕩けるような顔で微笑んでいる。そういう顔で僕を見てくれたっていいのになと、少し嫉妬心が湧いた。トーストに塗った、ほろ苦くて甘酸っぱいレモンマーマレードの味がその気持ちに更に拍車をかける。

僕がサク、と音を立てて食べたトーストにつられてなまえもバターを少しとレモンマーマレードをたっぷり塗ったトーストを齧った。そして、“美味しいね”と僕の方を向いて微笑んだ。やっぱりすごく、可愛い。
まるで僕が思ったことが読まれていたかのような行動にドキドキと心臓は高鳴る。

朝食が済むと、彼女に片付けを任せて僕はシャワーを浴びた。

「今日はハロも一緒に行くぞ」

僕が頭を拭きながらそう声をかけると、耳をピクリと動かしたハロが嬉しそうに返事をした。

ハロはペット用のケージに入れて後部座席、助手席にはなまえ。

「じゃ…行こうか」

僕が向かったのは、昔一度警察学校の同期達で行ったあの海。是非ともなまえを連れて行って、僕らのあの運命的な出会いを話したいと思っていた。

あの全てが希望に満ちていた夏。あの時はまさか僕一人になるなんて思いもしなかった。
こんなことならもっと、あいつらと遊んでおけばよかったなんて、今更後悔しても遅いのだけれど。

「運転…疲れた?大丈夫?」

普段はお喋りな僕が一言も発しなくなったせいか、心配したなまえが僕にマグボトルに入れてきたコーヒーを飲む?と差し出してくれる。

「ごめん、ちょっと考え事してただけ」

僕はなまえから受け取ったマグボトルを少し傾け、冷たいコーヒーを口に含んだ。家を出てから約一時間。もう少しすれば目的地に着くというところだろう。

「なまえ」

「ん?」

「今日は、降谷零でいたい」

「了解」

僕はなまえが優しく笑うのを見てから、少しだけアクセルを踏み込んだ。少しでも早く着きたいと気が急いてのことだった。

「零、ここ…」

真っ青な空に入道雲。あの時のようなカラッとした晴天。残念ながらもう九月に入ってしまったので、海の家は終わっていた。
僕達は水着に着替え、ビーチパラソルを立て、その下にレジャーシートを敷く。

「来たことある?」

「うん…大学最後の夏に、一度だけ…」

なまえはあの時ほどは人がいないビーチを眩しそうに眺めた。砂を踏みしめる感覚は久しぶりだがやはり心地いい。
ハロは早く遊びたいようで、彼女の足元をチョロチョロと走り回っている。

「その時、髪の長い男にナンパされなかったか?」

「あぁ…偽物警官くん!」

なんだか萩原は不名誉なあだ名をつけられているようであった。僕はくっ、とこみ上げる笑いをこらえてなまえを見た。

「でも何で零が知ってるの?」

なまえは不思議そうに僕を見返した。そりゃあ何で知っているかわからないままでは不思議で仕方ないだろう。

「あの日、僕もここにいた…それでナンパしに行ったけど君にコテンパンにやられて帰ってきた奴が、萩原…松田の親友であり僕の大切な同期だ」

「うそ…本当に警察官だったの!」

そこかよ…と思ったが、まぁ驚くのも無理はない。

「爆発物処理班だけどな」

「もしかして、零もその場にいたの?」

「少し後ろにいたよ…ナンパには混じらなかったけど、僕は顔も見えない君の可愛いお尻に釘付けだった」

「なっ…」

「君がこの間園子さんに誘われてプールに行った日、その水着を見て思い出した。萩原が、東都大学薬学部のエリート女子をナンパしたけど完膚なきまでに叩きのめされて帰ってきたことと、僕がその女の子達の中で黄色と青の花柄の白いビキニの女の子のお尻に夢中だったこと…」

「零のえっち!」

なまえは耳まで真っ赤だ。そんな顔したって可愛いだけなのに。僕はふふっと笑みを零した。

「仕方ないだろ、男なんだから。あんなに可愛いお尻が目の前にあったら見るよ…」

「可愛くないし」

なまえはぷいとそっぽを向いた。本当に怒っているわけではなく、恥ずかしいのだということはわかる。
あの時の彼女の後ろ姿と重なった。

「“ねぇお姉さん、僕と遊ばない?”」

僕はいたずらになまえの腕を掴む。

「お兄さんは警察の人?じゃあ大麻の主成分、答えられる?」

「テトラヒドロカンナビノール」

「よくできました…遊んであげてもいいわよ」

そう言ってなまえはとうとう吹き出した。

「ねぇ、零…その萩原って人は…」

なまえは、僕の苦い表情から全てを悟ったようだった。

「…殉職した」

「…そう…一緒に、遊べばよかったね…私、あの時は“幼馴染のゼロ君”にご執心だったから」

「!」

後悔しても今更だけど、となまえは波打ち際の白波を踏みながら歩く。

「僕が、ナンパしに行けばよかったな」

「それは…すぐ引っかかったかも」

そんなことを言いながら、僕達は笑った。ハロは猛ダッシュで少し先まで駆けては止まり、僕らを待つ…を繰り返している。
僕達はあの日の時間を取り戻すように手を繋いで波打ち際を歩いた。

『ほら、ゼロだったらいけたじゃん』

萩原が、僕の後ろで笑った気がした。