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初恋はゼロ


『あ、みょうじ先生?妃です。風邪が治らなくてまた病院を受診したんだけど、アポがたくさん入っててお薬もらいに行く時間がないのよ。それで、蘭に取りに行ってもらおうかと思うの。ちょっと遅くなるかもしれないけど…』

妃先生にお薬を渡してから数日後、再び彼女から電話が入った。ゴホゴホ、と咳をしながら喋る彼女の声は、普段より随分と篭って聞こえた。

「先生ひどい鼻声ですね。蘭ちゃんが遅くなるようだったら危ないですから、私が帰りに寄って預けて行きましょうか?探偵事務所は米花町五丁目でしたね?」

妃先生の緊急連絡先は、毛利探偵事務所である。私は彼女の電子カルテを検索し、住所を確認した。

「ごめんなさいね、そうしてもらえると助かるわ」

「今日は早めに上がれそうなので、夜の八時くらいなら持っていけると思います」

「蘭に伝えておくわ、ありがとう」

「お大事になさってくださいね」

私は時計を見上げた。妃先生との約束を守るためには、あと二時間きっかりで仕事を片付ける必要がある。

「よし!」

私は深呼吸をして一気に仕事に取り掛かることにした。


「え…英理おばさん風邪なの?」

ここ数日蘭が浮かない顔をしているのでさりげなく聞き出したら、英理おばさんが風邪を引いてしまったらしい。
先日虫垂炎で入院したばかりだから、彼女が心配するのも無理はない。

「そうなのよ。しかも拗らせちゃったみたいで。心配だよね〜お父さん??」

ちょっとトゲのある口調で蘭は小五郎のおっちゃんに話を振るが、おっちゃんはいつも通り。

「ふん、英理もオバサンだからな。免疫力弱ってんじゃねーのか?」

おっちゃんはタバコを吸いながらスポーツ新聞を読んでいた。このオヤジ、英理おばさんのことになると悪態ばかり吐いている。

ハハハ、まだ当分戻ってこねーな、英理おばさん…

俺が苦笑いしたのと、探偵事務所のドアがノックされたのは同時だった。

「こんばんは。夜分恐れ入ります…ジキル薬局のみょうじですが」

控えめにドアが開かれ、若い女性が顔をのぞかせた。
ん?この間歩美ちゃんに連れて行かれた薬局の薬剤師のなまえ先生じゃねーか。

「!!!お嬢さん、この名探偵に何か御用でしょうかぁぁぁ?」

美人に滅法弱いおっちゃんは、慌ててタバコを揉み消し、なまえ先生を出迎える。

「あ、毛利さんですね。ご高名はかねがね。私、杯戸町にあるジキル薬局のみょうじなまえと申します。本日は奥様のお薬をお届けに参りました」

デレデレのおっちゃんに勧められるがままソファに座らされた彼女は、英理おばさんの薬を掲げてニッコリと笑った。

「あァ?英理の?」

おっちゃんのテンションは急降下。分かりやすいねーこのオヤジ…

「体調が悪いのに無理してお仕事されてるようで。旦那さんからもお休みするよう言ってあげてくださいな」

ニコニコとおっちゃんに追い討ちをかけたなまえ先生の視線が、俺を捉えた。

「あら?あなた確か…コナンくん?」

「あーっ!やっぱりあの時の先生だ!」

俺は子供っぽさ全開で返事をした。何やってんだと自分でも馬鹿らしくなるが、変に疑いを掛けられるよりはマシだと一生懸命言い聞かせている。

「え、コナンくんみょうじ先生と知り合いなの?」

蘭が彼女にお茶を出しながら、俺を振り向く。

「うん!この間なまえ先生に歩美ちゃんが会いに行くって言うから僕達もついて行ったんだ」

「ベイカ薬局にいた時に歩美ちゃんのお薬を渡したことがあって…転勤になったのを知って、先日お友達と会いに来てくれたんですよ」

なまえ先生が、俺の話に補足してくれたので、蘭はやっと合点がいったようにへぇ、そうだったんですかと言った。

「ところでコナンくんは、蘭ちゃんの弟?」

「違いますよ。今、訳あってうちで預かってて。江戸川コナンくんっていうんです!可愛いでしょう?」

蘭は俺をギューっと抱き上げて説明する。胸が当たるからやめてほしい…

「蘭姉ちゃん、おろして!」

恥ずかしくて顔に熱が集まるのが分かる。

「ふ、コナンくんって、大人っぽいのかなと思ったら可愛いのね、ふふ、」

クスクスとなまえ先生が笑い出したところで、やっと蘭から解放された。

「あ、すみません。処方箋とお薬代取ってきます」

蘭が席を外し、おっちゃんがテンションダダ下がりのままタバコを吸い始めると、なまえ先生が小声で俺に話しかけて来た。

「ねぇコナンくん」

「なぁに?なまえ先生」

「コナンくんは、蘭お姉さんのことが好きなのね」

悪戯っぽい笑みを浮かべたなまえ先生に、俺はしどろもどろ。

「え、あ…」

「懐かしいな、初恋。私はもうその子のあだ名がゼロだったことしか覚えてないけど」

なまえ先生は、それはそれは優しい顔で笑った。

「!」

黒ずくめの組織の一員であるバーボンの昔のあだ名が“ゼロ”だったと聞いたのは記憶に新しい。
まさか…

「先生!お待たせしてごめんなさい。足りますか?」

戸惑いを隠せない俺の隣をすり抜けるように蘭がパタパタと駆けてきて、彼女に英理おばさんの処方箋とお薬代を渡す。

「ちょうどね、ありがとう。遅くにお邪魔してすみません。じゃあ毛利さん、私失礼しますね」

「おう」

「ありがとうございました。ほらコナンくんも挨拶して」

「さ、さよなら〜」

暫くの間、俺の心臓はバクバクと嫌な鼓動を刻んでいた。