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登校して間もない頃に転入生に挨拶されたこと以外では特に何事もなく1日が過ぎる、筈だった。
「で、三権分立は知ってるな?
立法権の国会、行政権の内閣、司法権の裁判所。
権力が集中してしまうと誰も止められないから権力を分散させ、互いに監視・抑制する仕組みだ。」
教科書に蛍光ペンでアンダーラインを引いたところで、猫の鳴き声が聞こえた。
思わず顔を上げると彼が狼狽えているのが目に入る。
訝しく思い、彼の机の中をちらりと覗いてみると青い目をした黒猫がそこにいた。
来栖の様子からして連れ込んだわけではなさそうだ。
最近猫の目撃情報がちらほらと出ているのはそういうことかと結論づけ、授業に意識を戻そうとした時
「おい…あれ…!」
「あれ…飛び降りるんじゃ…!」
「鈴井…?」
不吉な言葉と聞き覚えのある名前に思わず立ち上がる。
仲が良いかと聞かれると返答に困るが、何度か話したことはある人物。
顔から一気に血の気が引き、それを振り払うように教室から飛び出し中庭へと向かった。
野次馬の存在で時間はかかったが、どうにか辿り着く。
彼女の元には既に救急車が到着しており、担架に乗せられた状態だった。
数歩離れた先から見ている野次馬達は彼女を映そうと携帯を掲げている。
掌に爪が食い込んだ。
「すみません、毛布かシートってありますか?」
堪らず救急隊員に声をかける。
それだけで分かってくれたらしく、隊員は頷いて彼女が見えないように毛布を広げた。
野次馬から文句がちらほら上がるが知ったことではない。
「誰か付き添いを…教職員の方いらっしゃいませんか?」
「私は担任ではありませんから…」
「こういうのは校長が…」
生徒や救急隊員達の目の前でも平気で展開される責任の押し付け合い。
吐き気がする。
担架の傍に膝をついて様子を伺う。
「辻元さん…ごめんね…今までたくさん助けてもらったのに…」
「鈴井さん…」
逃げてばかりの私に謝ってもらう資格なんてないのに。
毛布から覗く手を握る。
もっと私が強かったのなら、彼女はこんな目には合わずにすんだのだろうか。
そんな風に思ったところで起こった事が無くなるわけでもないのにそう思うのだ。
だから、今できるのは1つしかない。
これを決行すれば穏やかな学生生活は送れなくなるだろうし、最悪大学処分だ。
だけど、やらなければもっと後悔する気がした。
4回のノックの後に意を決して体育教官室の扉を開けた。
先に彼等は来ていたようだ。
目を見開く彼等を横目に鴨志田の様子を伺う。
彼等がここに来るのは予想通りではあったが、予想より少し来るのが早い。
「辻元?どうした?」
生徒が飛び降り自殺を図ったというのにどうしてこうも笑っていられるのだろう。
爪がまた食い込む。
これは彼へ地獄行きの切符を贈るための必要手順だ、我慢しなければ。
「ちょっと先生に用事があって。」
地獄行きの列車について、だけど。
心の内で付け足す。
"用事"をどう捉えたのか彼はいやらしい笑みを見せる。
「何だ早速相談か?それとも個人的な用事か?」
無遠慮な視線が舐め回すように身体の上を滑るのを我慢し、
ポケットに大事に仕舞っていたそれを掲げて見せる。
「最近の電気屋さんってすごいですよね、こういうの普通に売っているんですよ。
お陰で聞き取りにくかった授業も後で聞き返せますし…」
ボタンを押すと同時に雑音混じりの音声データが再生された。
そこに録音されていたのは鴨志田と辻元の会話だった。
教師が生徒に対してかけたとは思えない色欲に塗れた言葉の数々に誰もが言葉を失くす。
「私がこれを警察に提出すれば必ず捜査の手が入ります。
先生が隠してきた体罰やセクハラの証拠はもっと出てくるでしょうね。
自首すれば少しは刑が軽くなりますよ。」
「お前…!」
殺意に似た怒気が向けられる。
ここで怯んで引き下がるわけにはいかない。
「私、もう黙って先生の言うことを聞くだけのお人形じゃありませんから。」
ボイスレコーダーをぎゅっと握る。
本当は今にも逃げ出したいくらいには怖い。
我慢し続けるだけの生活の方がまだ痛みは少ないぞと仄暗いものが囁く。
でもそれは選べない。
一緒にいる彼等を、鈴井志帆を裏切りたくない。
「どーすんだ?証拠、出てきたぞ。」
坂本が一歩前に出て鴨志田を睨みつける。
逮捕への足掛かりとなる証拠と証人が揃って出てきたというのにまだ余裕が残っているらしい。
彼はその場にいる全員を睨みつける。
「ここにいる全員退学だ。次の理事会で吊るしてやる。」
話は終わりとばかりにそう吐き捨てる鴨志田に渚は怒りを隠さずこう返す。
「気に入らない生徒は切り捨て…王様気取りですか?」
王様、その言葉に鴨志田の口角が持ち上がる。
「ははは、上手いことを言うなあ。
俺のご機嫌をとって自分だけは逃げようって腹か?
まあ、お前が誠意を見せようって言うなら考えてやっても…」
どこまでいってもこういう思考回路らしい。
呆れたものだ。
「そんなことをするくらいなら退学の方がずっとマシです!」
これ以上話し合う余地はない。
怒りのままに部屋を出ていくと慌てた彼等もついてくる。
「はー…委員長こえぇ…」
「普段大人しい人が怒ると怖いって本当なんだな…」
随分好き勝手言ってくれるものだ。
「ぶっちゃけ鴨志田のことどう思ってんの?」
坂本の質問に髪を整えながら素っ気なく返す。
「ガムの次くらいには好き。」
「なんでそこでガム!?」
「ガム嫌いなの。」
「つまり嫌いってことか。」
あくまでも冷静に簡潔に結論を出す来栖に坂本がずっこける。
浮いた者同士割と気が合うのかもしれない。
後書き