夏の虫の話

 91.

「あんまり難しく考えんなよ。この先のことなんて、神サマにしか分かんないんだからさ」

彼はサングラスを降ろし、片方のペダルに足を掛けた。
こんな言葉がさらりと出てくるあたり、彼もまた、これまで様々な悩みを抱えながらその足を進めて来た旅人なのだろう。
もしかしたら彼自身、旅の中で困難が立ちはだかった時は、そうやって自分を鼓舞してきたのかもしれない。

「おい、陽」

近くの木葉が、揺れ始める。
隣にいた陽が、ぴくりと身体を震わせた。

「辛気臭ぇな。ブサイクな顔してても、顔は上げてけ」

カッコ悪くてもクソ弱くても、前向いてりゃそれなりに見えるんだからさ。
彼は陽の胸に、自分の拳を当てた。
陽は何も言わず、その場に立ったまま動かないでいた。
私には今、二人の瞳は窺えない。
陽は今、彼から何を感じ取っているのだろうか。
何かを、伝えられているのだろうか。

「じゃ、気を付けてな。何かあったら、連絡しろよ」

「ええ、ありがとう。そちらも、気を付けて」

私達に軽く手を振り、彼はペダルを踏み込む。
数回漕ぎ出したと思った頃には、彼はすでに遠く彼方へ離れてしまっており、あっという間にその姿は見えなくなってしまった。
彼の周りに吹いていた風と共に、見えなくなってしまった。

「顔は上げてけ、か」

そう呟いて、陽は空を仰いだ。
私もつられて、上を向く。
熱い太陽が、じりじりと肌を焦がしていくのが分かる。
空は相も変わらず、雲一つ無い快晴だ。

「うん。そうだな」

涼しい風が、頬を掠める。

「空が、綺麗だ」

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