夏の虫の話
94.「こらー。動かないでって、言ったでしょ」
頑なに動こうとしないビークインには、被写体になってもらった。
折角アロエ姐さんがくれた、他地方のポケモンだ。
大切にスケッチさせてもらおう。
ビークインは、ボクが言った通り身じろぎ一つしなかった。
全く、優秀なモデルさんだ。
それでもやはり体力が底をつきそうなのか、段々とよろめき始めて、今では手すりに掴まるのもやっとというところだろうか。
……結構、可哀想な事をしているけれど、これ以上ボクが近付いて変に暴れてもらっても、困るし。
暴れたら暴れたで、ボクのポケモン達で抑えつけてしまえばいいんだろうけど、なんか…、ねぇ?
そんな事を、考えていた時だった。
「あっ……」
ぐらり。
ビークインの身体が傾き、ロフト上にぱたりと倒れた。
僅かに羽を動かしているのが分かるが、もう立ち上がることは出来ないだろう。
どうやらもう、限界みたいだ。
ボクはビークインの元へ行き、彼女をモンスターボールの中へ収めた。
全く、手の掛かるポケモンをもらっちゃったなぁ。
モンスターボールの無機質な冷たさが、指先に響いてくる。
時刻は、冬の早い夕暮れ時を指している。
外へ出ると、ボクの吐く息が白く変わった。
それと同時に、まばゆい世界がボク等の身体を包み込む。
ひんやりとしたレンガの壁に、暖かな陽の光が反射して、街全体をオレンジ色に輝かせていた。
空は海のように深く、レンガは燃えるように揺らめき、窓のガラスは宝石のように瞬く。
マジック・アワーだ。
ああ、このボールの中のビークインにも、見せてやることが出来たらいいのに。
今の様子では、とても無理だろう。
でも、いつか。またいつか。
果たしてボクは、彼女の瞳に、心に、届けてやることが出来るだろうか。
ふと気をゆるめてしまえば涙があふれ出てしまう様なこの気持ちを、彼女と共有することは出来るだろうか。
知らないまま生きているのは、勿体ない。
この世界の、美しさを。
この感動を。
心情を。
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