夏の虫の話

 97.

「子を産んだ私は、それまでの私と違ったらしい」

何かの枷が外れた様に、彼女はボクに語り始めた。
一定のリズムを刻む彼女の言葉は、どこか遠くへ向けられた強いメッセージの様だった。

「母親の顔、というらしい。それは世間一般では良い印象を与える言葉として使われている様だが、私の主は違った。以前の私は自信に満ち溢れ、気高く、それはそれは美しい瞳を輝かせていたのだという。しかし、それが子を産んだ途端、全く感じられなくなったらしい。それが、私自身には分からなかった。自分のことであるにも関わらず、だ。情けないことにな」

彼女の目は、真っ直ぐ前を見据えている。
誰へ向けられた言葉なのか、ボクには分からない。

「それでも私たちは、解決策を探し続けた。一度は魅せられた、夢だったのだ。そう簡単には、諦められなかった」

だから、決断したのだ。
険しい表情の中で揺れる瞳を、ボクは見逃さなかった。

「私と主は、子供らを野へ放した。それが最良の判断であると、その時は思っていたのだ。いや、事実、私は安堵していた。この、形容し難いしがらみから、私自身が解放されたことに」

でも、駄目だった。
彼女の口から、言葉が溢れる。

「解放など、されなかった。私の価値が下がってゆくのが、自分自身でも感じられた。私は身体だけでなく、心までをも醜く汚してしまったのだ」

一息吐き、足元の野花へと目を向ける。
花は今も変わらず、風に吹かれて揺らめいている。


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