夏の月に陰

 197.

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たとえ明日、世界が滅びようとも、明日、リンゴの木を植えよう。
そう言ったのは、かつて宗教改革の中心人物となったドイツ人牧師、マルティン・ルターである。
この言葉を、人は、一体どう捕えるのだろう。
……私は『希望』だと思う。

「風が気持ちいいー」

太陽が西日に変わる頃、タチワキシティへ向かう船は、私達を乗せ、その陽を追う様に進んで行く。
きらきらとオレンジ色に乱反射する海原が、とても綺麗だ。
気温は日中に比べると低くなったけれど、日向に居るのはやっぱり暑くて、私達は陰にある備え付けのベンチに腰を落ち着かせていた。

「ああ、大分涼しくなってきたな」

海を眺めながら、陽は笑って頷いた。
そんな彼の横顔をみていると、胸の奥がきゅう、と痛くなった。
自分の心臓を、誰かの優しい温かい手で、強く握り潰される様な感覚。
あれから何度、私はこの痛みを味わっているのだろう。
何だか無性に悲しくなってしまって、私は陽の身体に寄り掛かった。

「どうした? ミツキ」

「眠くなってきちゃった。肩、貸してちょうだい」

「まだ夕方だぞ」

「ちょっとだけ。着いたら起こして?」

「いいけど……」

「うん、お願いね」

「……」

陽が何も断らないのを良いことに、私はそのまま、身体の力を抜いて、彼にもたれかかったままになった。
するとリラックスし過ぎたのか、本当に眠たくなってしまって、私はそっと瞼を閉じた。

まどろむ意識の中で、思い出したことがある。
ルターの遺したあの言葉には、前文がある。

死は、人生の終末ではない、生涯の完成である。希望は、強い勇気であり、新たな意志である。――――たとえ明日、世界が滅びようとも、明日、リンゴの木を植えよう。

例えば死という言葉が、私達の別れを意味するのなら。
ここで謳われている『希望』は、私の望む『希望』とは、大きく違うのだろう。

死を迎えてもなお、明日は変わりなく続いていく。だから明日のために……未来のために、希望を残す。

ルターは、そう言いたかったのだ。きっと。
かの教祖の教えに従うならば、私が取るべき行動は、ただ一つ。……ただそれだけ。

でも、私は嫌なの。
今を、今この時を、大切に生きていたい。
今、隣に居る貴方と、一秒でもいいから長く、笑い合って生きていたい。
そう思うの。
……それが、私の『希望』であり、『願い』なの。

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