夏の夜と彼
4.ある日起きたら巨大な毒虫になっていたのはグレーゴル・ザムザだが、ある日起きたら見知らぬ土地に来ていた私は、一体何なのだろう。
「どこ、ここ」
そこは自室ではなく、見知らぬ森の中だった。
森の中の、根や草や落ち葉が敷き詰められた地面の上で、私は眠っていたらしい。
生憎、私は普段からそんな習慣や嗜好は持ち合わせていない。
立ち上がると、少しめまいがした。
足が冷たい。裸足だ。
ぼさぼさの頭や背から土や葉が落ちてきた。
外なのに、ルームウェアのままだ。少し恥ずかしいが、仕方ない。
冬でなくて良かった。寒さで凍えるよりまだましだ。
ありがたい事に、日はまだ高い。
思いのほか、私は冷静だった。
寝ぼけて、現状を把握し切れていないのか。
反応が鈍っているだけなのかも知れない。
しばらくこのままここにいて、もう一眠りしようか。
目が覚めたらいつもの目覚めと何ら変わらず、ああ、夢だったのか、と言えるかも知れない。
そう思った。
しかし、残念ながらこんなにリアリティのある夢を、私は見たことが無い。
元々夢などあまり見ない方だから、余計にそう思うのかも知れないのだが。
とにかく、森から出よう。
そう考えたのは、言い知れぬ寒気がしたからだ。季節は夏のはずなのに。
私は森を歩き始めた。
裸足で歩くなんて、何年ぶりなのだろう。
獣道を進んで行くうちに、足はすぐに傷だらけになってしまった。
でも、歩は止められない。何故か、本当に寒い。
誰かに後ろから見られている、そんな気がした。
ただ早く森から出たいからと、自分に暗示を掛けていただけなのかも知れない。
どれだけの時間歩いたのだろう。
見知らぬ土地を歩くのは時間が掛かる様に思えるのはよくあることだが、
今回ばかりは幾つか歳を取ってしまったかの様に感じた。
森を歩くうちに人口的に作られたであろう小道に出て、私はひどく安堵した。
不幸中の幸いとはこの事だ。
土をすり減らして出来た簡素な道であったが、道なき道を進んでいくよりましだった。
幾らか歩きやすい小道を進んで程なくして、森を抜けた。
森を抜けてすぐ、コンクリートで舗装された道へ出て、視界の端に街が見えた。
不幸中の幸いは継続している様だ。
私は更に歩みを進め、街へと近づいていく。
街の香りがする。
湿った風の音がする。
カラフルな人々や建物が見える。
私は安心して、顔の緊張が少しほぐれる。
そして気付く。
あの森には、何も無かった。
嗅覚を刺激するもの、
聴覚を刺激するもの、
視覚を刺激するもの。
唯一あの森にあったのは、私が森を歩いていた、ということだけ。
あの森に、風は吹いていたのだろうか。
草木は揺れていたのだろうか。
生き物は、いたのだろうか。
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