平和に行きましょう。

感光するその手に触れて


澄晴を怒らせたあの日は、澄晴の気が済むまで抱き潰された。あんなに怒りの感情をぶつけられたセックスは初めてで、何よりも怖くて仕方なかった。散々抱いた後、彼は気が抜けたように帰って行った。

私は初めて澄晴を怖いと思ってしまった事にショックをうけた。けど、それよりも何より、愛情が分からなくなってしまった。心が痛く、寒かった。どうすればよかったのだろう。何を間違えたのだろう。このまま澄晴と一緒にいてもいいのだろうか。そう考えていたら、いつの間にか朝になっていた。

ボーダーの活動がない限り、いつも朝は一緒に登校している。しかし、今日は待ってみたけど澄晴が家に来る事はなかった。

午後から防衛任務があったため、学校を早退して任務に向かった。早く着いてしまったので、時間までラウンジに行き飲み物でも飲みながらゆっくりする事にした。

しかし、ゆっくりすると思い出してしまうのは昨日の事で。澄晴が怖いと思いながらも、連絡すらない事に少しだけ寂しく思ってしまう。けれども、未来を考えると気持ちがぐちゃぐちゃになって苦しくなる。私達はきっと、共依存していたのだろう。でも澄晴は、もっと深く濃く、恐ろしいほどの依存だ。きっとこのままではお互いが壊れてしまう。昨日澄晴に強く握られて、くっきりと痣が残った両手首を見て、私はそう思っていた。

ボーッと手首を見ていたせいで、誰かが通りかかるのに気付かなかった。

「苗字先輩やないですか。ってその手首、どうしたんです?むっちゃ黒黒してますけど」
「お、隠岐くん。ごめんね、醜いもの見せちゃって。大丈夫だよ。何でもない」
「嘘やろ。これ、犬飼先輩やんな」

隠岐くんは私の手首を見て、すぐに彼氏である澄晴を疑った。余計な心配をさせてしまったようで、さっさと換装しておけばよかったと後悔した。隠岐くんは、同じポジションで割と話す方だ。スカウト組の隠岐くんが入隊してすぐに、ボーダー内の案内や撃ち方の基礎等のお世話係をしたのが私だったため、今でも異性の中では1番交流がある。

最近は澄晴が嫌がるためあまり接していなかったけど、隠岐くんはいつも爽やかな笑顔で挨拶をしてくれていた。合同訓練の順位が調子良かった時も「やっぱり苗字先輩上手いっすね」と声をかけてくれたりと、ボーダー内でも珍しく私と仲良くしようとしてくれた子だった。

「犬飼先輩に乱暴されてるんですか?」
「違うよ!ちょっと私が怒らせちゃって」
「ほんまに犬飼先輩なんすね。ありえへんわ。ちょっと怒らせただけでこんな痣作ります?俺やったらどんだけ怒っても、好きな人に怪我なんか絶対させへんけど」

隠岐くんのその言葉は、今の私にはかなりダメージを与えた。隠岐くんはいつもの笑顔ではなく、真剣に私に伝えてくれていた。隠岐くんの心配そうにしている顔を見ていると、何故か涙が出てきてしまった。

「え、ちょ、ごめんなさい。言葉キツすぎました?」
「い、いや、あの、ごめん。勝手に泣けてきちゃって」
「ほんまに大丈夫です?何かあるなら話聞きますよ。こんな事言ってもええんかわからへんけど、俺、苗字先輩の為になりたい。苗字先輩はほんまに今幸せって言えますか?」

ただの仲良い後輩が気に掛けてくれてるだけ。それなのに、隠岐くんから少しだけ滲み出る甘い雰囲気に飲まれそうになる。澄晴からは激甘シロップのような毒を与えられて来た。約2年間も毒を飲み続けてきた私の体は、もう彼の毒に耐性がついてしまっているようで、何が普通で何が異常なのかさえ判断が出来なくなってしまっていた。

彼からの救いの手をどうすべきか。

「俺は苗字先輩を救いたいって前から思ってました。俺が本当の幸せを教えます」

隠岐くんの真っ直ぐな眼差しが、私の気持ちの揺れを貫く。隠岐くんの目を見ていると、なんだか頭がボーッとしてきて、無意識に彼の救いに頷いてしまった。だけど、心の底で誰かに助けて欲しかったんだと思う。今の澄晴と私の関係は、決して良い関係ではないんだろうなとは、少しは理解している。今、私が澄晴に対して感じてる気持ちは、おそらく『恐怖』が一番強い。

「ここで話せます?別の機会がええんやったら、また時間作ります」
「今から任務があるから、また近いうちに話聞いてくれると嬉しい」
「了解っす」

その時の約束については。ボーダー用のスマホでやり取りをするという事で、その日は任務に向かった。

そしてその2日後、お互い非番のタイミングがあったため、話を聞いてもらう事になった。澄晴からは今だに連絡はない。ちなみに二宮隊は防衛任務だ。

外は誰かに見られてしまうと大変な事になりかねないため、どこか人目のつかない場所で話を聞いて欲しかった。そう伝えると、隠岐くんは「カラオケ行きます?時間余ったら歌いましょうよ」と提案してくれたため、駅前のカラオケに行く事になった。

隠岐くんが先に着いていたため、部屋番号を聞いて後から入室した。

「隠岐くん遅れてごめんね。部屋ありがとう」
「全然遅れてませんよ。というか、プライベートの苗字先輩初めましてですよね。なんかいつもと違ってええなぁ」

今日はハイウエストスキニーに白のトップスといったシンプルな服装にした。「脚ほっそ」と隠岐くんにマジマジと見られて少し恥ずかしい気持ちもあるけど、純粋に服装を褒められると嬉しくなる。

「隠岐くんもいつもと違っていいね。似合ってる」
「ほんまに?苗字先輩とプライベートで会えるの楽しみやったから、ちょっとおめかし頑張ってみました」

隠岐くんとは仲良いけど、澄晴と付き合ってるしもちろんボーダー外で会う事なんて無かった。人目を気にしなくていいからか、いつもよりも何だか雰囲気が違う気がする。服装もだけど、なによりも彼自身が。

「ほんで、犬飼先輩と何があったんです?」
「あのさ、隠岐くんから見て私達ってどう思う?」
「いきなり質問返しやん。えっと、それは2人の付き合い方って事ですか?」
「そう」
「側から見たら相思相愛そうやなって感じやと思いますよ。俺からしたら窮屈やないんかなって思ってました。2人きりの世界って言えば聞こえはええんやろうけど、その分いろんな幸せを逃してへんかなって」

部屋のモニターからは知らないアーティストが新曲について話す声がしている。その画面を見ながら、隠岐くんは淡々と言葉にした。

「苗字先輩は今ちゃんと楽しいですか?幸せですか?」

隠岐くんはきっと、私の気持ちが揺れて困惑している状況を見抜いているのかもしれない。

「もう、わかんない」
「何があったんすか」
「学校の男の子に告白されたら、澄晴が凄い怒って、全然話聞いてくれなくて、手首痛くて、目が、本当に怖かった」

ぐちゃぐちゃに言葉を羅列しながら、いつもより小さな声で少しづつ伝えた。隠岐くんは口を挟まずに、私が話し終わるのを静かに待ってくれていた。

「死ぬまで離さないって、俺から逃げられないって、そう言ってて、相手の男の子に気持ちなんて揺らいでないのに信じて貰えなくて、別れる気なんて無かったのに絶対別れないって言われて、乱暴にエッチされて、もう、どうすれば良かったのか分からない」

怒られた子供のように視線を下にしてボソボソと言う私に、隠岐くんは優しく私の頭を撫でた。

「苗字先輩はそれでも犬飼先輩が好きなん?」
「…わからなくなっちゃった」
「そやろね。それでええと思いますよ。それでもまだ好きなんやったら正直何も言う事ないですけど、そうやないんやったら言うてもええですか」

隠岐くんのその言葉を聞いて、俯いた顔を上げて私は彼の目を見た。

「俺は絶対好きな女の子の事傷つけへん。心も体も。一番に大切にする」
「大切…」
「犬飼先輩がやってる事は"束縛"やん。苗字先輩の自由を奪ってるだけ。もちろん犬飼先輩の根底に重めの愛情があるんやろうけど、彼女の生き方の自由を奪う事って愛情なんかな」
「けど私、澄晴からの愛情しか知らないの」
「俺が苗字先輩に本当の愛情を教えます」

隠岐くんはそう言って、私の頬に優しく手を添えた。

「俺は貴方を大切にできる」

彼から私に向けて静かに唇が落とされた。甘く温かい口付けは、 凪いだ水面のように穏やかで、優しかった。

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