合宿遠征二日目"プライド"

体育館と校舎を繋ぐ長い廊下の間にある水のみ場でボトルを洗う。
日も沈んだこの時間は、暑さも幾分かマシになってきた。昼間はあんなに煩かったセミの鳴き声も少し減ったように思う。

「でも暑い……」

それでも関東の夏は暑い。じわりと滲む汗が、微かに吹いている風に当たってほんの少しだけ涼やかに感じられることは救いだった。
私はまだ水に触れているからいいけど、本日も全敗した皆は、今頃坂道をダッシュしている。でも、何度も何度も繰り返しペナルティを受けたことで体力も増えてきたし悪いことばかりではなかった。

私も入部した頃よりは腕の力が強くなった気がするなぁ。ドリンクを入れた重いカゴを楽々持てるようになってきたし、洗濯物や買い出しの荷物だってモリモリ持てるようになってそれを実感した。この調子だと、3年生になったらムキムキになってたりして……。腕と足だけマッチョな自分の姿を想像してゾッとした。


「…何の音だろ?」

洗い終わって水道の水を止めると、どこからともなく鈴が鳴るような音が聞こえて顔をあげた。そういえばここに来たときからよくこの音を聞いている。……虫の声かな?そう思うと同時に、ふと気配を感じて思わず振り返った。
すると一人で体育館へ向かう影山の姿が見えた。

何でこんなところに?

という疑問よりも、今なら話しかけるチャンスかも!という思考が勝り心臓が早鐘を打った。
何て言おう、とかまた怒らせたりして、とか色々思うことはあったけれど勢いに任せて影山の元へ走る。
考えるより先に行動する!でなければ、私はずっと影山に話し掛けられないままだろう。

「かげや、まっ……!?」

突然、飛び出してきた黒い塊が私の足を掠めた。驚いて足がもつれ、視界が傾く。
ヤバイ!重力に抗えず着々と地に近付く体。"受け身"と言う3文字が頭を過ったけれど、私にそんな高度なことが出来るはずもなく無意味に手を伸ばしただけだった。
顔面はやだ!せめてもの防御として、辛うじてまだ地面に着いていた片足に力を入れると思いの外、前へ勢い付く。
結果、私はスライディングのごとく地面を数十センチ滑ることになった。それはもう華麗に。むき出しの膝が地面との摩擦で熱を帯び、今日に限って半パンを履いていた自分を恨んだ。……いや、でも暑かったんだもん。

「……」

我ながら笑うしかない。高校生にもなってここまで盛大に転ぶとは…。膝は犠牲になったけど、顔は庇えた自分を褒めてあげたい。

…そういえば昔、遊びに行った遊園地で迷子になったときに出会った関西弁の男の子を思い出した。あのとき、心細くて泣いていた私の目の前で男の子が盛大に転んだのだ。そして、その時咄嗟に言った言葉は今でも忘れられなかった。

――あぶな、ころぶとこやった!
「危ない、転ぶところだった……」

強がりだったに違いない。今なら分かる。でも幼かった私は、男の子の言っている意味が分からずただただ立ち尽くした。
あの子、今どうしてるんだろう。名前なんだっけなぁ。その後、一緒に家族を探してくれたのに顔が全然思い出せない。でもインパクトは強かったから今でも転ぶと思い出している。

「ななし野さん、だよね……大丈夫?」
「全然平気――」

しばらく地面に這いつくばっていると、頭上から声が掛かった。そして、返事をしかけてやめる。
……待って、誰だろう?こういう時はよくツッキーが声を掛けてくるけど、違う。烏野の誰かとも違う。聞いたことがあるのに、すぐに思い浮かばない。
おそるおそる顔を上げ、私は飛び起きた。

「――あ、赤葦さんお疲れ様です!何してるんですか、こんなところで」
「それ、こっちの台詞だと思うけど……」

少し動揺した様子で私を見る赤葦さん。というか、若干引いてない?大丈夫だよね……?
どこから見ていたのか分からないけど、確実に変な女だと思われた気がする。

「血が出てるけど大丈夫?」
「え?」
「膝、擦りむいてる」

赤葦さんが私の膝をじっと見つめながらそう言った。確認すると、両膝の擦り傷から一筋の赤。
怪我を認識した途端、ジンジンと熱と痛みが広がるのは何故だろう。さっきまで熱いなくらいだったのに、血を見てから急にズキズキと傷が痛む。
白い靴下に血がついたら大変なので、急いでずり下げると赤葦さんがちょっとだけビクッとしたのが見えた。

「転んだの?」
「……は、はい」

私の足元にしゃがむと傷の具合を確認する。その質問をするということは、私が言ったあの言葉は聞こえていなかったんだよ、ね……?突っ込まれてないし。聞こえてたけどあえてスルーされてるんなら、それはそれで恥ずかしい。

「そんなに深くないね。血は出てるけど、すぐ止まるよ。痕が残らないといいけど」
「ほんと、たいした傷じゃないので平気です!」
「でも、すぐ洗った方がいいよ」

そう言った赤葦さんは、立ち上がると水道の蛇口をひねった。そして、靴を脱ぐように指示すると私を手招きする。まさか手当てをしてくれるというのか。

「あ、赤葦さん!私、自分で出来ますよ!」
「そう?じゃあ洗ってて。救急箱とってくるから」
「そんな、悪いですよ!後は一人で大丈夫なので自主練に行ってください」
「いや、そういうわけには……」

こう見えても私はマネージャーなのでケガの手当てくらいは自分でできる。というより、他校の先輩である赤葦さんにそんなことをさせるわけにはいかない!
他校に迷惑をかけるんじゃないよ!と言った大地さんの顔が思い浮かんで全力で断るも、赤葦さんは救急箱を取りに体育館へ戻って行ってしまった。

「いい人だな……」

赤葦さんの優しさをしみじみと実感する。
とりあえず、ばい菌が入らないうちに洗っておかなくては!靴とくつ下が濡れないように脱ぎ、患部に水を掛けると少し染みてヒリヒリと痛んだ。それも慣れてくると冷たくて心地よくなってくる。

「はぁ…なんか上手くいかない…」

一人、傷口を洗いながらため息を吐く。
これまで特に大きな悩みもなく、順調に過ごしてきた。でも、ここ最近は何をやっても空回りしている気がしてならない。影山ともツッキーとも意志疎通が上手くいかずギクシャクするし。仲直りしようと勇気を出したらこのざまだ。
水と混じり薄くなって排水溝に流れていく自分の血を眺めて、もう一度ため息。少しだけ目頭が熱くなって視界が滲んだ。
一粒、涙が零れてハッとする。泣いている場合じゃない!ゴシゴシと目元を拭った。

「……」
「赤葦さん、いつのまに帰って来たんですか!?」
「今だけど」

ボーっと自分の足を見つめていると、再び現れた赤葦さんの声に驚く。全然気配を感じなかったけど、本物だよね?クロ先輩が言ってた化け猫が化けた赤葦さんじゃないよね?
どうしても気になって赤葦さんを凝視したけど、全く気にする様子でもなく口を開く。

「黒尾さんか月島、呼んでこようか?」
「えっ?よ、呼ばなくて大丈夫です!」

何故ここで二人の名前が上がったのか分からない。ただ、呼ぶほどの事態でもないから断りを入れる。
それから少しの沈黙が流れ、先に言葉を発したのは赤葦さんだった。

「……意外と痛むの?傷」

気まずそうに少しだけ視線を泳がした後、赤葦さんは私の膝を指差した。全然痛くないです!と言いかけて、やめる。ちょっと痛いし…強がる元気もない。

「意外と」
「地味な傷程痛いことってあるよね。プリントの端で指先切ったりとか、タンスの角に足の小指ぶつけたりとか」
「赤葦さんでもそんなドジをすることがあるんですね」
「寝起きとかね」

淡々と話している赤葦さんとは反対に、私はぶつけてもいないのに足の小指が痛くなってしまった。少なくともタンスがないこの合宿中は大丈夫だろうけど、足元には気をつけようと決意する。

「とりあえず絆創膏で大丈夫そうかな」
「すみません、赤葦さん。ありがとうございます」
「いいよ、気にしなくて」

ほんの少しだけ口角が上がったような気がした。近くの段差に座るよう指示され、その通りに座る。自分でやります、ともう一度言ったけれどスルーされたので大人しく手当てしてもらうことにする。ここでごねても私の傷は治らないし、早く終わった方がいい。
赤葦さんはテキパキしていて、あっという間に消毒が完了していた。私の判断は正しかったようだ。

「赤葦さん、手慣れてますね」
「練習したからね。こういうことは自分で出来て損はないし」
「なるほど」

ここまで来たら全部赤葦さんにやってもらおう。ある意味開き直った私は、赤葦さんの手元を見つめてコミュニケーションを図ることにした。
物静かな印象だし、返事もそっけないんだろうなと勝手に思っていたけれど意外とそうでもない。特に部活のことを聞くと色々と教えてくれた。

「赤葦さんは木兎さんと仲が良いんですね」
「仲が良いっていうか……あの人目を離すとどこで何してるか分からないし、それで一緒にいることが多いだけだよ」

声が大きいからすぐ見つかるけどね、そう言って少し笑う赤葦さん。そんな二人が容易に想像出来て、私も笑ってしまった。

「なんだか赤葦さんが先輩みたいですね」
「それ、よく言われる」

木兎さんは自由奔放で試合でもそんな性格がよく出ていた。だから、どちらかというと冷静沈着に見える赤葦さんは木兎さんとは合わなさそうだと思ったけど違うようだ。
本人は気付いているのかいないのか、木兎さんの話をするときは何となく楽しそう。友情に学年は関係ないのかな。
じゃあ、性別は?

「これで大丈夫」
「ありがとうございます。何から何まで……」
「いいよ、でも足元は気を付けた方がいいね」
「はい……」

またボーッとしてしまっていた私に、赤葦さんが終わったよと教えてくれた。
もう痛い思いもしたくないし、いつあんな風に謎の物体が飛び出してくるかも分からないので赤葦さんの忠告に深く頷く。

「そういえば……この辺りに野生の黒猫っています?」
「黒猫?俺は見たことないけど」
「…さっきこの辺を走ってませんでした?」
「いや、見てない」

私は黙り込む。あんなに勢いよく飛び出してきたんだから、近くに居た赤葦さんも見ているかもと思ったのに。それに私はここに来てから毎日目撃している。なのに、他の人は誰も見てないって変じゃない?

「あの、じゃあ!影山……うちのセッターは歩いてましたよね?あの辺りを!」
「え、今ペナルティで坂道ダッシュしてたけど?」

沈黙。サーっと血の気がひいていく。赤葦さんが嘘を言っているようには見えないし、知り合って間もないけれど人をからかうようなタイプじゃないと思う。
ということは、あの影山は一体……?

「ああ赤葦さん!!」
「えっ、何?」
「も、もしかして……化け猫ですか!?幻覚?オバケ!?」
「意味が分からないから。一旦落ち着いてななし野さん」

突然取り乱し、赤葦さんの腕を掴んで揺する私を冷静に宥める。何があったのかを聞かれて、クロ先輩に聞いた話をそのまま伝えると、赤葦さんはため息を吐いた。

「それ黒尾さんのデタラメだと思うよ。あの人たまに面白がってそういうこと言うから」
「デタラメ……」
「この辺は木が多いし、暗くなってきたから見間違えたんじゃない?野良猫は普通に棲みついてるから居てもおかしくないし」
「…」

クロ先輩の化け猫の話はとても曖昧だった。それに比べてきっぱりと否定する赤葦さんの言葉は、私の落ち着きを取り戻すには十分だ。
よくよく考えればそんなオカルトな話、あるわけないよね!だって私は霊感がないんだから。昨日だって森然のマネである大滝さんが、化け猫なんて聞いたことがないと言っていたじゃないか。

「そ、そうですよね、化け猫なんているわけないし私の勘違いですよね。取り乱してすみませんでした」
「落ち着いたみたいでよかった」

ホッとした赤葦さんは、当初の目的を思い出したのか顔を洗うために水道の蛇口を捻る。私もくつ下と靴を履き、ボトルの入った籠を持つと赤葦さんと共に体育館へ戻る。

「この後、自主練くるよね?」
「そのつもりです」
「じゃあ、また後で」

そう言って第三体育館の方へ向かう赤葦さんと別れると、植え込みからガサガサと音が聞こえて身構える。まさか、またあの黒猫?
ドキドキしながら音のする方を見ていると、顔を出したのは三毛猫だった。

「なんだ……やっぱり見間違えただけかな」

赤葦さんの言うとおりだった。やっぱり、化け猫なんて現実に居るわけないし私の勘違いだったんだ。



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