「…」
目は慣れてきたものの相変わらず暗闇の中、私は一人動けずにいた。ここに辿り着いてから5分は経ったんじゃないだろうか。廊下の隅っこ、ピッタリと壁に背を張り付け、体育座りをしている私の方が余程幽霊に間違えられそうだ。
目を瞑ると自分が作り上げた想像上の幽霊が瞼の裏に浮かぶ。逆に目を開けると、やっぱりその幽霊が教室や窓の外からこっちを覗いているような気がしてくる。ベタに白装束を着た長い黒髪で顔が見えない女が……。考えないように意識すればする程、より鮮明に思い浮かべてしまうのは何故なんだろう。
「もう嫌……なんとか、しないと」
自分が動かなければ事態は何も変わらない!そう意気込んで既に4回目。とりあえず、今自分がいる場所だけでも特定すれば次に進めるはずだ!意外と近くに戻ってきているかもしれないし、こんなに悩んでいた時間が無駄だったと思う程あっけなく帰れるかもしれない。
おそるおそる顔をあげ、教室の扉の上のプレートを確認する。目を凝らし、黒く印字される文字を読み上げた。
「音楽室…」
よりによって幽霊が出そうな場所に来てしまっている…!七不思議には定番の場所。必ずと言っていいほど登場する所じゃないか。ピアノの音が聞こえないことが不幸中の幸いで、恐らく校舎の最上階に来てしまっていることが私にとっての不幸だった。
肌にまとわりつく生ぬるい空気、外から聞こえるセミの声、月が隠れる度に暗闇に覆われる不気味な通路。作り物のお化け屋敷より、断然夜の学校の方がリアルで怖いと思った。トイレとか特に。
朝までこのままは耐えられない!いっそのこと幽霊に遭遇して気絶でもした方がいい気さえしてきた。
「誰か、起きてないかな…」
はぁ、とため息をついてケータイの連絡先を眺めた。どうしよう、誰かに助けて欲しいけど多分もう寝ているだろう。ただでさえ慣れない合宿で疲労も蓄積されていて、最近はみんな眠りにつくのが早いのだ。それでも、もし助けを呼ぶなら森然の校舎に詳しい大滝さんが思い浮かぶ。……生憎、連絡先を知らないので叶わないけど。
影山は間違いなく夢の中だろう。その前に呼び出す勇気はないのでナシ。ツッキーもナシ。試しに助けを求めるシミュレーションしてみたら三回断られた。何だかんだ頼りにしている幼馴染みたちは、今宮城なのでナシ。
「詰んだ」
……迷子になったくらいなんだっていうんだ!高校生にもなってそんなことで人を呼び出していいのか?アドレス帳を眺めているうちに、謎のプライドが顔を覗かせ始める。そのせいでこんな事態に発展していることは、棚に上げるしかないと思った。
「うしっ!帰るぞ…帰りますよ…?」
何とか気合いを入れて立ち上がってみたものの、中々一歩が踏み出せない。暗闇をじっと見つめていると、何か見えてはいけないものが見えるんじゃないかという恐怖心が再び沸き上がってくる。
残り少ないケータイの電池がなくなる前に、教室にたどり着かなければいけないのに、そのライトのせいでより恐怖が演出されていて本末転倒とはこういうことか?と場違いなことを考えてしまった。
とりあえず背後の死角をなくすため、壁に背を引っ付けたままカニ歩きで移動する。なんとしても後ろに出現される、という事態は避けたい!意地でも背中は見せないぞ、という気合いのもと何とか1メートル程進んだ時だった。
手に持ったケータイが振動し始めたのは。
「うぎゃぁ!!タイミング…!!」
心臓が痛い程に波打つ。朝、同じような状況に陥ったことを思い出し、ひとつ深呼吸する。設定した覚えのないアラームではなく、電話に設定したバイブのパターンだった。まさか出る度にだんだん近づいてくる、とかじゃないよね…?今音楽室にいるの、とか言われたら多分ショック死するだろう。
ただ、ここでパニックに陥るわけにはいかないので、無理やり気持ちを落ち着け、薄目でディスプレイを見た。"クロ"の二文字がぼんやり見えた。
「先輩!」
そうだ、クロ先輩だ!まだ起きてた!他校生だったからスルーしてた!すがり付く思いで通話をタップする。「もしもし?」小さな機械ごしに聞こえた先輩の声に心底安堵して、その場に座り込んでしまった。
「クロ先輩!!」
『イイエ違います』
「今そういうのいいですから!」
『エ?何で怒ってんの?』
クロ先輩から掛かってきているのに何が違うんだ!余裕がなさすぎて半ギレの私に驚いたのか、先輩の声は戸惑っているようだった。決して、怒っているわけではない。焦っているだけなのだ。
『ごんべ子、お前今どこいんの?教室行ったら居ねぇし、』
「クロ先輩、音楽室がどの辺にあるか分かりますか?!」
何度も合宿をしているクロ先輩ならもしかしてこの学校の教室の位置くらい知っているかもしれない。先輩の発言を遮って、食いぎみに尋ねた私に「どういうこと?」と怪訝な声色になる。私が反対の立場だったらきっと同じ反応をするだろう。夜中に音楽室の場所なんて、普通は尋ねない。
『なに、音楽室に行きたいってこと?』
「違うんです。今いるんです、音楽室に」
『何故』
「ま、まよっ……たん…、す」
『え、何て?』
迷ったって、おかしくないか?言いながら恥ずかしくなって、尻すぼみになっていく。最後はモゴモゴと口ごもり、先輩に何度も聞き返された。恐らく私が言いたいことを分かっているだろう。それでも私の口からはっきりと言わせるまでは、絶対に話は進まない。
「迷ったんです!戻れないんです!」
『ぶっひゃっひゃ!何してんの、ごんべ子チャンは!』
何がそんなに面白いのか、電話口から聞こえてくる独特の笑い声に黙るしかない。バカにされて腹立たしいのに、何となくホッとしているのは内緒だ。
笑いごとじゃないですよ!と言う私の発言とほぼ同時に、夜久さんの「黒尾うるせーぞ!」という声が聞こえた。
『そこで待ってろ。すぐ行く』
そう言って通話が切れてから何分経っただろうか。状況は何も変わっていないのに、先輩のおかげで恐怖心は随分と和らいでいた。
ここで待っていれば、クロ先輩が迎えに来てくれるんだ。
……本当に?
いやいやいや、私は何を……。先輩の善意を疑うなんて失礼すぎる!と思うのに、浮かんでくる今朝のやりとり。「オチオバケって知ってる?」と私に問いかけてきた先輩の目。
待って、もうそういう自滅しそうなことは考えちゃだめだ!と自分に言い聞かせ、残り5%になったケータイの電池を眺めた。今日は忘れずに充電しなくちゃな。幽霊とかってケータイの充電に関係なく勝手に操作してくるのかな。また怖いこと考えてしまうことこそ心霊現象に違いない。
――ここら辺では昔から化け猫がでるとかでないとか。
そういえば追いかけられている時に猫の鳴き声が聞こえた気がした。あの黒猫がいるときは必ず鈴の音が聞こえていたし、どこにでも現れていたことを思い出す。
もし、もしも、さっきの光る目も小さな足音も全部クロ先輩が言ってたオチオバケ、つまりそれが"化け猫"だったら?
――人間に化けて紛れ込んでるとか込んでないとか。
「じゃあ、あの時の影山も…?」
――影山……うちのセッターは歩いてましたよね?あの辺りを!
――え、今ペナルティで坂道ダッシュしてたけど?
二日目の夕方、手洗い場から私が見た影山が化け猫だったとしたら?あの時、赤葦さんには見えていなかったじゃないか。
――目を付けた人間に悪さするらしいよ。
ドクドクと脈が上がり始め、途端に呼吸がしづらくなる。さっきの電話がクロ先輩に化けた"化け猫"だったら。そもそも電話のタイミングがよすぎなかっただろうか。私が今朝、オチを奪ったからその仕返しにきたんじゃないか。
待ってろって言われたけど、クロ先輩本人ではなかったのだとしたら…?
「そんなわけない、大丈夫だって…!」
そうだ、そんなバカな話があるわけないじゃないか!今、私は恐怖心にのまれているだけだ。だからきっと大丈夫。霊感なんてないし、クロ先輩はいつもタイミングが良いだけ。
どちらにしても廊下の突き当たりにいる私に逃げ道なんてないし、いっそのこと眠ってしまえばこの一連の出来事も全て夢の中の出来事になるかもしれない。
再び体育座りをして、顔を組んだ腕に埋めて、ただひたすらにクロ先輩の到着を待った。虫の声に混じって微かに足音が聞こえてきたので、私はぎゅっと目を瞑る。もうどうにでもなれ!
ガシリと、両肩が掴まれた。
「っ!!」
声も出ず、顔も上げられず、体が強張る。オバケって意外と力強いんだなぁ、と脳内は嫌に冷静だった。黙ってやり過ごそうと微動だにしない私に、頭上から声が掛けられるのに時間は掛からなかった。
「おい、ごんべ子!大丈夫か?!」
「…先輩…?」
「もしかして体調悪い?」
ようやく状況がのみ込めた私は、薄目を開けて顔の上半分だけを腕から出す。ぼんやりと人の形が見えた。
「プッ…!なんつー顔してんだ、お前は」
「先輩ぃ!」
ぐしゃり、と頭を撫でられようやくそれが待ち望んでいたクロ先輩その人だと確信した。笑いを堪えつつも、心配してくれている。うっすらとかいた汗は、急いでここまできてくれたということを物語っていた。もしかして走ってきてくれたのかと思うと心がじんわりと温かくなった。
「あちーわ、ちょっと休憩」
そう言ってクロ先輩は私の隣に座って汗を拭った。触れるか触れないかの位置にある肩が、お互いの体温を感じさせる。
安堵から零れそうになる涙を堪えて、鼻をすすると先輩はびっくりした顔で「笑って悪かったって」とバツの悪そうな顔をした。一人じゃないことがこんなに心強いだなんて知らなかった。
「で、迷子の迷子のごんべ子チャンは何で迷子になったのかな?」
「先輩、私のこと信じてくれますか?」
「え、ウン。信じる信じる」
「うそくさい…」
「失礼な奴だな」
絶対思ってないような返事に思わず本音がもれた。半信半疑でもいい、さっき起こった出来事を一人心の中に止めておくなんて怖すぎて出来ない。クロ先輩に「作り話だ、あり得ない」と否定してもらわなければぐっすり眠れない気がする。
一連の出来事を話し、私がなぜこんな場所にいるのかを理解した先輩は、どう反応すべきか迷っているようだった。普通に考えたらあり得ないよね、こんな話。
「嘘だって笑ってくださいよー」
「それでもいいけど、ごんべ子は信じて欲しかったんじゃねぇの?」
なんか俺のせいでもある気がする…。苦笑いした先輩は、少なからず責任を感じているようだった。だんだんといつもの調子に戻ってきた私は、先輩に軽口を叩く。
「先輩、今日どうしたんですか。カッコいいじゃないですか…」
「はい?俺はいつでもカッコいいですけど?」
「ははっ、」
「なにその乾いた笑い」
沈黙。そして目があうと、お互いにぶはっと吹き出した。さっきまで怖い怖いと思っていたこの場所も、今は全然怖くない。そういえば前の合宿でも先輩と二人、廊下で雑談したこともあったな。
「さて、戻るか」
「はい!やっと帰れる…」
汗も引き、二人して立ち上がると先輩がじーっと私を眺めていることに気づく。そしてニヤリと笑った。何かを思い付いたような、いつもツッキーに絡む時と同じような目に、色んな意味で少しドキリとした。
「ど、どうしたんですか?」
「ンにゃ、何でもない」
「…?」
ニコッと食えない笑顔を向けると、くるりと背を向けて歩き始める。置いていかれたら今度こそ私はここで朝を迎えることになるだろう。先輩の半歩後ろにぴったりと張り付き、余計なことを考えないように自分の足元に意識を向けた。
「なぁ、さっきの話な」
「はい」
階段を下り、少し進んだところで歩みを止めた先輩がポツリと言葉を紡いだ。
さっきの話とは、多分私が話した怪奇現象的なアレのことだろう。せっかく忘れていたというのに、どうしてまた蒸し返すんだろう。
「俺が信じるって言ったのは何でか分かるか?」
「えっと、…急にどうしたんですか?」
静かに質問を投げ掛けてくる先輩に、私はごくりと唾を飲み込んだ。そもそも完全に信じてくれているとは思っていない。
――しばらく一緒にいるといつもと雰囲気が違うことに気づいたわけよ。
また、クロ先輩の声が脳内に木霊した。嫌だな、なんか今朝の怪談がこの状況と妙にリンクしている。否定も肯定もしなかった先輩が、いつもと纏う空気の違う先輩が、頼りにしている先輩が。一度は馬鹿馬鹿しいと捨てたその考えが再び甦ってくる。
――様子をみつつ話し続けるも、やっぱりどこかおかしい。
一歩後ずさる。嫌だ。そんなバカな話があるわけないんだって!怖い映画で、幽霊に出くわした時どうして皆逃げないんだろうと思っていたけど、その答えを身をもって知る。足が棒のようになって動かないのだ。あんなに五月蝿かったセミの鳴き声も今は聞こえない。
「あの、クロ先輩……?本当にどうしたんですか、」
「どうもしねぇけど」
「なんかいつもと違うというか、その…」
「…」
別人みたい。言うか言わないか、躊躇う。これでもし振り返ったクロ先輩が全然別人だったらどうしよう。のっぺら坊?化け猫の顔?私が想像した女の幽霊?またしてもネガティブな発想が止まらなくなって、呼吸が浅くなる。
黙りこんだ私の恐怖心を煽るように、先輩はゆっくりゆっくりと顔をこちらに向ける。なんでそんなに怖い振り向きかたをするんですか!悪い冗談はやめてください!言いたい言葉が喉に張り付いて出てこない。
「ちょっと、やめてくださいよ、クロ先輩…ですよ、ね?」
「…」
「……え?」
―それでね、振り返るとこう言うの。
「"ホンモノ"だと思った?」
「…ひっ!ぎゃぁあああ!!ごめんなさいぃ!」
先輩の顔を見るより先に、私はその場に崩れ落ちた。どうしてピンチになると謝りたくなるんだろう。何も悪いことをしていないのに、うずくまってひたすら謝罪を繰り返す私は、滑稽極まりない。これで満足か、幽霊さんよ!
「おいごんべ子」
「うぎゃああ!お願いします、殺さないで!」
「おい、ごんべ子!落ち着けって」
「……そんなこと言って、本当に先輩なんですか?」
「オレだよ、オレオレ。オレです」
肩を揺さぶられ、何度か名前を呼ばれるうちに徐々に落ち着きを取り戻す。まだ完全に信じきれない私は万が一のことも考えて、得意の薄目でチラリと先輩を見上げた。目、鼻、口がちゃんとある。
「だから、なんつー顔だよ」
笑いを堪えながら私を見下ろすのはどこからどう見てもクロ先輩、その人だった。
「本物です、よね…?」
「ぶふっ、」
「本人ですよねぇ!?」
「ぶっひゃっひゃっ、腹、痛ぇー!」
またしても吹き出した先輩は、動画撮っとけばよかったなんて溢している。がばっと顔を上げ、先輩にしがみつくとしつこく本人かと尋ねた。必死の形相に先輩は笑いを引っ込める。
「そーだよ、黒尾さん本人ですよ」
「よかったぁ…!!う…っ!」
胡散臭い笑みには違いないけれど、それがいつもの先輩だと確信がもてたことが何より嬉しい。遊園地のオバケ屋敷なんて比じゃないくらいに怖かった。何も出てこないからこそ恐怖心で色んな想像をしてしまう。軽くトラウマになりそうだ。
もう目の前のクロ先輩が本物だろうが偽物だろうがどうでもよくなった。先輩が本人だと言うならそれでいい。
「エッ、泣くほど?」
「泣い、てませっ、ん!」
「何でそんな嘘つくんだよ」
恐怖と驚きと緊張感と、その他諸々の感情が一気に溢れだして止まらない。勝手に出てくるソレを止めようとTシャツの襟を引っ張りあげて顔を拭うと、先輩が優しく制止した。
「あー、その…悪かった。怖がらせすぎた」
「勝手に、ビックリしたのは、私です!」
「……。ワザとだって言ったら、怒る……?」
「エッ!?」
頭に手をあてて申し訳なさそうに呟く先輩のせいで、涙はすぐにひっこんだ。全部、私を怖がらせるための演技だった。
一気に脱力した私に言い返す気力はない。
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