「マジで悪かったって。ちょっとした出来心で、な?」
「な?って言われても知りません」
「マジおこ?」

申し訳なさそうに謝るクロ先輩は、心なしか楽しそうだった。先程の私のリアクションがどうやらお気に召したらしい。ただ、本気で驚いてずっと我慢していた感情を爆発させた私の手前、爆笑するわけにもいかないという配慮もあるようだ。また泣かれたら困るのだろう。私だってもう泣くつもりはないけど……多分。

「さ、今度こそ戻ろーぜ。ごんべ子チャン」

私が落ち着くまで待ってから差し出されたその手をじっと見つめる。散々私のことをからかってくるくせに、こうやってしっかり面倒を見てくれるから許してしまうんだよなぁ。
動かない私に先輩は「何もしねぇって」と苦笑いした。

「今度はどうした?」

手を握ったまま、またしても固まった私に先輩は首を傾げている。どうしよう、自分でも情けない。

「……ません」
「え、何て?」
「立てません、腰が抜けて!!」

どうやっても腰から下に力が入らず、一歩たりとも動けなかった。今までどうやって立っていたのか、歩いていたのか、微塵も思い出せない。なるほど、腰が抜けるとは文字通りなんだな。

「ま、マジ……ぶふっ、」
「中途半端に堪えないでくださいよ!」
「ぶっひゃっひゃ!!」

何が面白いのか私が開き直ると、先輩はお腹を押さえて笑い転げている。ペタリと廊下に座り込んだまま、ただ恥ずかしさに耐えるしかない。夜の校舎で迷子になり、迎えにきた先輩を勝手にオバケと勘違いしたあげく、自分の想像で腰を抜かす。改めて行動を振り返ると、笑われても仕方がないのかもしれない。ただ、何か悔しい……!

「あの、私もう平気なので先に戻ってください」

しばらく動けそうになく、日付も変わりそうなことに段々と焦りを覚える。幾分か恐怖心も和らいだし、明日も早いのにこんなことに先輩を付き合わせるのが申し訳ない。さっきの出来事より怖いことなんて早々起きないだろう。そう思っての決断だった。

「強がっちゃって」
「…」
「ここまで来て置いていくと思いますぅ?」

ひとしきり笑い終え、満足した様子の先輩はふぅと息を吐いた。先輩には私の本心が筒抜けのようだ。ふざけているけど、やっぱり頼りになる。

「じゃあ前と後ろ、どっちがいい?」
「…え?」

私に向かって腕を広げ、問いかける。与えられた選択肢の意味が分からない。すると先輩は、噛み砕いてもう一度同じことを聞いてきた。

「お姫様抱っことおんぶ、どっちがいい?」

前と後ろってそういうことか!え、私を抱えていくつもりってこと!?気付いた途端に自分でも顔が熱くなるのが分かった。想像しただけで照れてしまう。それに、今日も晩御飯たくさん食べちゃったし!昼も朝も、昨日だって。つまり食べすぎて体重が増えているかもしれない。

「いやいやいや、そんな!……先輩にそこまで迷惑かけるわけには!」
「遠慮すんなって!そもそも俺のせいでもあるし、歩けねぇんだから仕方ないだろ?」
「それに私重いので!」
「お前なんか余裕で担げるわ。嫌なら引きずるけど?」
「う…それはちょっと」

昨日めっちゃ食べたし、汗かいてるから変な臭いしないか心配だし……もごもごと言いよどむと、先輩はそんな私の発言すら予想していたように、ため息を吐く。

「朝になっちまうぞ」

そう言われると、頷くしかない。
確かにこのまま私が駄々をこねても、しばらくは動けないわけだし。私を置いていくという選択は絶対にしないだろう。ここまで先輩に迷惑を掛けているのに、今更意地になっても仕方がない。恥ずかしいけど、一刻も早く教室に戻って体を休めないと明日ぶっ倒れるかもしれない!

「おんぶ…で、おねしゃす」
「決まりだな」

やっぱり恥ずかしいのは恥ずかしい。
先輩は、私の頭をくしゃっと一撫ですると、背中を向けてスタンバイした。そろそろと緊張気味肩に手を置いて、力が入らないなりに先輩の背中に身を預ける。すると、膝の裏に腕が入り込んでぐいっと持ち上げられた。

「高っ…!」

怖いという感想より先に、その言葉が口をつく。私史上最も天井に近づいた瞬間だった。先輩はいつもこの高さから景色を見ているのか。見上げれば視界いっぱいにコンクリートが広がって、触れるんじゃないかと手を伸ばした。

「うわっ」
「落ちんなよ」

丁度、先輩が一歩踏み出した拍子にぐらりと体が傾き、慌てて体勢を整える。こ、恐かった!頭から落ちたら洒落にならない!肩に置いた手に力が入った。

「暴れんなって!危ねェから!」
「いやぁ、怖い、揺れる!」
「こら、声響くから静かにしなさい!何時だと思ってんの!」
「お母さん!」
「お母さんじゃアリマセン!」

階段に差し掛かり、思ったより高所かつ不安定さに違う意味で恐怖を抑えきれなかった。自分でコントロール出来ないことと、暗くて足元がよく見えず、肩に手を置くだけでは不安なのだ。
ぎゃあぎゃあと煩い私はクロ先輩に怒られながら、何とか踊り場まで辿り着き一安心した。まだ半分ある!もっと安定するにはどうすればいいんだろう。

「あ、そうだ!こうすればいいんだ!先輩ちょいと失礼します」
「なにする、つもりだ…って、」

振り返ろうとした先輩より先に、首に腕を回す。そして先輩の肩口に顔を埋めると、あら不思議。安定するし、余計なものも見なくて済むし、一石二鳥だ!密着して暑いのは我慢すればいい。

「あのー、ごんべ子サン?」
「はい?」
「それは俺がヤバい」
「何でですか。暑いのは我慢してください」
「そうじゃなくてネ!?」

顔もあげずに返事をすれば、珍しく慌てた様子だった。先輩でもそんな反応することあるのか!ぎゅうぎゅうと首に回した腕に力を込めると、ごくりと先輩の喉が動いたのが分かった。

汗くさいから。それは私もです。当たってるって。何がですか、我慢してください。え、我慢していいの?いいです。

それきり会話は途切れる。頑として体勢を変えない私を説得することは諦めたようで、再び階段を降り始めたようだ。見えないし、安定してるし、恐くない!

「眠いのか?」
「…」

疲れていたことと、思った以上に先輩の背中が心地よかったことも重なって、猛烈な眠気が襲ってくる。先輩の少し低めの声も拍車を掛けていた。

「……先輩、来てくれてありがとう」

せっかく助けにきてくれた先輩にお礼を言い損ねていたことを思い出して、微睡みの中なんとか言葉を紡いだ。

「……タイミングずるくね?」


---


「ごんべ子、立てそうか?」
「あい、おはようございます…」

ふわふわとした夢現のなか、先輩の声に目を覚ます。もう朝?昨日は先輩におんぶしてもらってどうしたんだっけ?
床にゆっくりと降ろされ、足が着くことを確認すると汗ばんだ肌に空気が触れて少しひんやりとした。

「寝ぼけてんな」

何を言われているのか分からず、立ったままとりあえず頷いていると、肩を揺すられて意識が浮上する。未だ暗い風景に、私は状況がのみ込めずにいた。パチッという音と共に、空間が明るくなる。先輩が電気をつけたようだった。

「あれ?ここどこですか」
「んー?3年5組。ちょっと付き合えよ」
「…?」

そう言って先輩は椅子を引いて近くの席に座る。黒板の上に掛かった時計は、0時15分を示していた。まだあれから数十分しか経っていなかったのか。

「俺、5組なんだよ。お前は?」
「3組ですけど…」

ここ音駒じゃねぇけど、と言いながら頬杖をつく。どうして教室が開いているのだろう。顔に出ていたらしく、この合宿でいくつかの教室は余分に解放しているとの答えが返ってきた。

「ごんべ子、席どこ?」
「席……あ、自分のクラスだとってことですか?」
「ウン、そう」
「私はここです」
「マジで?俺の前じゃん」

唐突な要望だけど、まだちょっと足元が覚束ないし言われた通りに移動する。自分の教室に見立てて席につくと、今クロ先輩が座っている場所の前だった。どうやら先輩も自分の席と同じ場所に座っていたらしい。
肘をついている先輩と話しやすいように、横向きに座り直す。すっかり目は覚めていた。

「なんか新鮮ですね!同じ教室に居るのって」
「確かに」
「同じ学校で同じ学年だったら、私の後ろに座ってたのかー」
「何ソレ、楽しそう」

先輩が同級生だったらどんな感じだったのか、いまいちピンとこない。先輩は出会った時から先輩だったしなぁ。

「ちょっと、前向いてみてくんない?」
「いいですけど…何か後ろが先輩だと不安」
「どういう意味ですかー」

言われた通り、前を見て座ると背中に視線を感じて居心地が悪い。逆に私が前だったら、先輩は背が高いから黒板が見えなさそうだなと思った。いつまでこのままでいればいいんだろう。ぼーっと黒板に書かれた日直の名前を見つめた。

「ひっ」
「なんて書いたでしょう」

突然背中に走った指の感覚に思わず声が出る。夜中だと言うことを思い出して慌てて手で口を押さえ、振り返ると先輩は心底楽しそうに指先をくるくる回して見せた。

「は、…る、て…こ?あっ、春子?もしかして、先輩の彼女の名前ですか!?」
「惜しいけど全然惜しくない」
「えー、もう一回!」

くすぐったいけど当てられないことに悔しさを覚え、催促すると再び背中に指がすべる。わざと繋げて書いたり、触れるか触れないかの指圧にされたり、単純なことなのに私たちは大いに盛り上がった。

「あー、春高かぁ!全然分からなかったです!先輩が春子が惜しいっていうから、彼女の名前当てゲームかと思ったんですよね」

再び横向きに座り直し先輩にそう言うと、何か閃いたような顔でニヤリと笑う。すると、私にある提案をした。

「ごんべ子、今からタメ口で喋ってみてくんない?」
「えっ、急にどうしたんですか?」
「今更じゃね?もう友達だろ?俺たち。先輩後輩である前に、友達なんだから遠慮されると寂しいデス」
「私、先輩と友達なんですか?」
「え」

仲良がいい自覚はあったけど、まさか先輩が友達だと思ってくれていたなんて!言い方がまずかったのか少しショックを受けている先輩に、慌てて誤解だと弁明した。

「じゃあ、この教室にいる間だけでいいから同級生になりきろうぜ」
「何それ、楽しそう!」

その提案乗った!と始めたものの、何を話せばいいのか分からない。妙な沈黙を破り先に言葉を発したのは先輩だった。

「手始めに俺のこと呼んでみて」
「クロ先輩?」
「先輩いらねぇから。ハイ、もっかい!」
「えっと、く、クロ?」
「ははは、ぎこちねぇな」

ニヤニヤしながら、良くできました!と言われてちょっと照れた。あと違和感が凄い。それも慣れれば次第に薄れていくもので、私はすっかり同級生になりきっていた。

それから好きな教科や食べ物、趣味とか、他愛のない話に花を咲かせ、本当に同じクラスなんじゃないかと錯覚しそうだ。そういえば、先輩とは変な顔の写真を送りあったり、部活の話を聞いたり、ふざけあったりということはよくあったけど、こうして先輩自身について聞くことはなかったかもしれない。

「ごんべ子は、彼氏……好きな奴いんの?」
「なんで言い直したの?」
「いや、彼氏はいねぇだろうなと思って」
「失礼な!いません!」

彼氏どころか好きな人さえ居ないけど、決めつけられたことに納得できず自分で言い直す。先輩は「威張っていうことか」と同情の眼差しを寄越した。

「そういうクロは彼女いるの?あ、さっき否定しなかったからいるんでしょー!」
「んー?どうだろうネ」
「私は答えたのに!ズルい!」

はぐらかす先輩に抗議しても、ニヤニヤするばかり。私が聞いても答えてくれないのは納得できなかった。

「クロは大人っぽいし、面倒見もいいからモテそうだよね。連絡もマメにくれそうだし、ワガママも余裕で受け止めてくれそうだし、あとはー…」
「そんなに褒められたら、ボク照れる」
「特に年下にモテそう!」

途中から先輩は手で顔を覆って照れを表現していたけど、それについては触れずに話続けると「オイ、放置すんな」と真顔になった。

「その年下の中にごんべ子は入ってんの?」
「ソウデスネ」
「突然のツッキー化」
「さっき迎えに来てくれた時の先輩はかっこよかったですけどね」
「からのデレ!」

さっきからツッコミが激しいな。初めて会った時にはこうしてこんな風に仲良くなるなんて想像すら出来なかった。割と感情表現が豊かなところも、ノリが良いところも、私のことを妹のように可愛がってくれるところも、迷子になった私を迎えに来てくれるような優しい先輩だということも、知らなかった。

「だから、クロありがとう!」
「……!」

えへへと少し照れながら笑顔を向けると、先輩が一瞬固まる。そんな変な顔したかな?
おーい、目の前で手を振って顔を覗き込むと口元に手を当てて顔を背けてしまった。隠れていない耳が赤い。

「クロ?」
「ちょっとタンマ!」

覗き込もうとしたら手でそれを制される。一体クロ先輩に何があったのか。しばらくして私に顔を向けた先輩は、まだ仄かに頬を赤らめている。
もしかして照れてる?これは日頃イタズラされている側としてはチャンスなのでは……?

「おやおや?顔赤いですよ、先輩?おやおやおや?」
「うるせぇ!見んな」
「何に照れたんですか?もしかして私ですかー?」

今度は私がニヤニヤする番だった。しどろもどろになる姿が珍しすぎて動画に収めたいレベルだ。机に両肘をついて顔を乗っけると、目を泳がせる先輩をじっと見つめてからかった。

「あはは!先輩が本気で照れてる!そんなこともあるんですね!」
「……生意気なごんべ子チャンにはどんな仕返しが効くかなー?」
「ふぎゃっ」

突如ムニュと両方の頬っぺたをつまむと、軽く引っ張られる。先輩の手首を掴んで何とか引き剥がそうとするも、びくともしなかった。

「お前のこと"妹"って言ったこと撤回するわ」
「へっ!?」

やりすぎたから嫌われちゃった!せっかく仲良くなれたのに、距離感を間違えたんだろうか?楽しいと思っていたのは私だけ?涙目になる私に気付くと、先輩はぶはっと吹き出した。

「"妹"とは恋愛できねーだろ?」
「はぁ…そうですけど」
「だからお前は俺の"妹"じゃない」
「ん??」
「ちなみに俺は彼女イマセン」

ニコニコと笑う先輩は、全く話についていけない私にはお構い無しだ。わざわざそんな宣言をされなくても、私はクロ先輩の後輩であり友達であることに違いないのに。頬を解放すると、先輩は何故か満足気だった。

「そろそろ戻らねーと、見つかったら怒られるな」
「あ、そうですね!楽しかったです」
「はは、俺も」

すっかり時間を忘れていた。短い針が1の数字を指している。元通りに歩けるようになった私は、先輩に置いていかれないように後に続いた。

「怖がりのごんべ子チャンがまた腰抜かさないように教室まで送ってやろーか?」
「なっ!むかつく…!お願いします!」

さっきまで照れていた人とは別人、いや元に戻ったというべき先輩は教室の電気を消すと不敵な笑みで見下ろしてくる。私が帰る教室まで数分もかからないというのに、ここまでの失態を思い返して差し出された手をとった。


合宿四日目"クロ"
(明日、寝坊すんなよ?)(先輩もね!)

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