それから影山はいつも通りの態度だった。特にギクシャクすることもなく、かといって過剰にコミュニケーションを図るわけでもなく。だから私は、あの時ただ機嫌が悪かったのだと結論付けることにした。
「ただいま〜」
「おかえり」
テスト前ということで早めに部活を切り上げた私は普段より早い帰宅となった。玄関から母親に声を掛け、靴を脱ぐ。父親のものではない男物のスニーカーの横に揃えてリビングに行くと、既に夕食がテーブルに並んでいた。
「ごんべ子、そういえば――」
「わお!唐揚げだ!先に手洗ってくるね!」
母親が何か言い掛けたような気がするけど、お腹もペコペコで一刻も早く夕食を胃に放り込むことしか考えていなかった私はそれを遮ってしまった。
そして夕食を食べ終わっても、入浴を済ませた後も母親から言い直されることもなかったので、私もすっかり忘れていたのだった。
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欠伸をかみ殺し、濡れた髪の毛をタオルで乾かしながら部屋の扉を開ける。そして即座に閉めた。
あれ?ここって私の部屋だよね……?と扉を見つめて考える。毎日過ごしている自室を間違えるはずがない。
ここが私の部屋である以上、もう一度扉を開けなければ今夜はリビングで寝ることになってしまう。それは嫌だ!
「……遅いんですけど!何してたの!?」
「こっちが聞きたいんですけど!」
そっと、もう一度部屋の中を窺うと、幼馴染みの徹ちゃんがベッドに寝そべり、私に向かって文句を言う姿が確認できた。とりあえずそれは私の台詞だ!
「…」
徹ちゃんとはIH予選以来会っていなかった。あの日のメールに返信はなく、白鳥沢に敗退したこともコーチからの情報で知った。岩ちゃんづてに元気だということは聞いていたけれど、突然現れた本人に内心緊張している。
部屋の入り口で立ち止まる私に「入れば?」と声を掛けてきた徹ちゃん。それも本来は私の台詞だった。
「おばさんから俺が来てるって聞かなかったの?風呂まで入ってるじゃん!」
そういえば何か言いかけていたような気がするけど、もしかして徹ちゃんが部屋に居るってことだったのかも。聞いていればもう少し早く部屋に戻ったのに……多分。徹ちゃんは自分を待たせ、入浴まで済ませている私の姿を見てご立腹のようだった。
「ごんべ子が遅いから、『君が届く』全部読んじゃったし、軽く昼寝もしちゃったよ!だから今、マル秘ノート見てる」
「ちょっと!マル秘って書いてあるのに見ないでよ!マル秘なんだから!」
「いいじゃん、俺とごんべ子の仲なんだからさ!大体見られたくないなら机の上に放り出すのやめなよ」
ベッドの上であぐらをかいて、私が極秘で集めた選手データ(未完成)が詰まったノートを広げる徹ちゃんに、勢いよく飛び掛かった。私の頭が、硬い腹筋に衝突すると同時に「ぐふっ」という苦しげな声が聞こえる。
「徹ちゃんのバカー!」
「痛っ!そんなに怒る!?」
急いでノートを手で隠すと、徹ちゃんが涙目で私を見上げてきた。ほとんど徹ちゃんのことばかり書いていたし、それを本人に見られるなんて恥ずかしすぎる。絶対笑われるし、徹ちゃんに死ぬほどからかわれることも目に見えていた。手の届かない所にノートを放り投げると、ひとまずホッと胸を撫で下ろす。
「ねぇ、それよりさ。ごんべ子って結構大胆だね」
「はぁ?……なっ!」
楽しそうに笑う徹ちゃんを見下ろし、固まる。私の下ではニヤニヤと笑みを浮かべた幼馴染みが大人しく組み敷かれていた。ノートを閉じることばかりに気をとられ、自分の体勢がどうなっているかなんて気にする余裕がなかった。
「いい眺め。ごんべ子がこうしたんだからね?」
目を細めた徹ちゃんは笑みを浮かべ、固まっている私の頭と腰にそっと腕を回す。濡れた髪からポタポタと、徹ちゃんの顔に滴が垂れていた。
一体、今何が起こっているの?キャパオーバーの出来事に思考回路はとっくに停止している。
「ごんべ子」
熱っぽく名前を呼ばれると、胸の辺りがぎゅうっとわし掴まれたように苦しくなった。
しんとした部屋に、私の鼓動が響いているような錯覚。ぐっと後頭部に添えられた手に力を込められ、一気に近づいたお互いの顔。息も出来ず、ぼやける徹ちゃんの顔をただ見つめた。
唇の熱が感じられるほどの距離にくらくらする。あ、やばいキスしちゃう。
「……むりむりむり!」
「あー!あとちょっとだったのに!」
ほんの僅かに唇がかすめた気がして、一気に冷静さを取り戻した私は渾身の力を振り絞って体を起こした。バクバクと鳴る心臓と、顔に集中した熱が治まらない。恥ずかしさに距離をとると、徹ちゃんの残念そうな声が聞こえてきた。軽くパニックである。
「わあああ、むりだよ!何、今の!私、どうかしてた!ごめんなさい!」
「ちょっと、そんなに嫌がられると流石に傷つくんだけど」
「嫌っていうか、何て言うか……!むりだー!」
「……」
私と徹ちゃんがキスするなんて、やっぱり考えられなかった。だって物心ついた時からずっと、兄のような存在だった人と急にそんなことをするなんて……。
そもそも私たち付き合ってるわけでもないのに、キスするのも変だよね?いや、でも別に決まりはないし。挨拶でキスするところだってあるわけだし。でも私日本人だ!
混乱する頭で一人パニックに陥っていると、徹ちゃんが私の肩をポンポンと叩いた。
「それよりごんべ子。髪の毛ちゃんと乾かさないと風邪引くよ。俺が乾かしてあげよう!」
「……自分で出来るから、大丈夫だよ」
「いいから早く!ほら、ここおいで」
妙に気恥ずかしくて目も合わせられずにいると、徹ちゃんが強引に私の腕を引っ張って床に座らせた。部屋に置いてあったドライヤーを手にとると、その長い両足で私を挟むように後ろのベッドに腰掛ける。
少し落ち着いてきた私は、昔よくこうして世話を焼いてもらったな、と懐かしい気持ちになった。
こうした方が顔を見られなくて済むことに気づいたので、私は何も言わずされるがままでいることを選んだ。
「ごんべ子、熱くない?」
「んー」
徹ちゃんの指先が私の髪の毛を優しくすいてくれる。丁度いい温風も相まって今度は眠気と闘うことに必死だった。うとうとと頭が船を漕ぐ。あまりの心地よさに、いよいよ夢の世界へと旅立ちそうになった瞬間、突然耳元に息が掛かった。くすぐったさに飛び上がると、徹ちゃんが楽しそうに笑っていた。
「終わったよ」
あのまま寝てしまえれば天国だったのに……。大きな欠伸をしながら、ドライヤーを片している幼馴染みの姿を見つめた。告白されたり、それを振ったり、喧嘩したり、この短期間に色々と予想外の出来事があった。それでも傍に居てくれる徹ちゃんの存在が奇跡のように思えた。
「ほんと、ごんべ子って危機感ないよね」
「そうかな?」
どういう意味だろう?まだ眠気が残っていて脳が働いていないので、考えるふりをして「うーん」と唸った。徹ちゃんは私のことを(多分)一人の女の子として見てくれているみたいだし…。そう思えば、急にさっきの出来事が頭を過って顔に熱が集まるのを感じた。
「ねぇ、期末前にこのテストの点はヤバくない?もっと危機感持ちなよ」
「そっちかよ!まぎらわしい!」
「エッ、何が!?」
どうやら徹ちゃんは、私が机に放り出していた小テストに対しての発言だったようだ。恥ずかしい勘違いをしていたことを更に恥ずかしく思って、私はベッドにダイブして顔を隠した。もうこのまま眠ってしまいたい。
「さっきからごんべ子、変じゃない?俺のこと意識してくれるのは嬉しいけどさ、普通がいい」
「!!」
「まあ、俺みたいな超イケメンを今までスルーしてたごんべ子の目は節穴……うぷっ!」
「うるさい!」
徹ちゃんには全てお見通しだったらしく、私が一人じたばたとしている姿を眺めてニヤリと笑っていた。私にもっと大人の余裕があれば、目の前の幼馴染みの言動に動揺せずに済むのに。そう思うと、私ばかり振り回されているように感じて何となく悔しい。
ニヤニヤする徹ちゃんの顔に枕を投げつけると見事にヒットしたので、少しだけ気分が晴れた。
「いきなり何すんのさ!」
「あ!」
「な、なに!?」
「ねぇ、徹ちゃんって勉強できるほうだったよね?」
「エッ?まあね!」
枕を拾い上げて私に文句を言っていた徹ちゃんに、そう問うと得意気に答えた。そうだ、いいことを思い付いた!今私の頭の上にピコーンと電球マークが浮かんでいるかもしれない。
「ねぇねぇ、徹ちゃん。今度の休み、私に勉強教えてくれない?」
「え、いいけど!ごんべ子が俺を頼るなんて…岩ちゃんに電話しなきゃ!」
嬉々として岩ちゃんに電話を掛けようとする徹ちゃんを慌てて止める。もう時計は夜の10時を回っているし、もし寝ていたら悪い。
そもそも岩ちゃんに何を報告するのか謎だ。
「明日学校で会うし、まぁいいか」
「それより徹ちゃん、そろそろ帰らないと明日起きれなくなるんじゃない?」
「え、泊めてくれるって?」
「それより徹ちゃん、そろそろ帰らないと明日起きれなくなるんじゃない?」
「一言一句同じ!」
家庭教師も確保できたし、私の眠気もピークに達している。さりげなくベッドに潜り込もうとしている徹ちゃんを部屋の外まで引っ張り出すと、頬を膨らませながら帰っていった。
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