しにたいだけどいきている

死にたいって思い始めたのはいつだっただろう。
苦しいとか悲しいばっかりじゃなく、楽しいことも好きなこともあったはずなのに、それでもわたしの中にそれは住み着いた。
楽しいまま死にたい。好きなことをしながら死にたい。悲しいことに出会ってしまったから死にたい。息をするのも苦しいから死にたい。
慢性化したそれはきっと病気にも近かった。病院にでも行ってみようかとも思ったけれど、身体に症状が出ているわけでもないのだ。不便さと感じているわけでもない。だってその死にたいっていう心は、ずっとわたしと一緒にいたのだ。わたしの中で、ずっとわたしと生きてきた。
いつだって死んでしまえる、それはわたしのなけなしの勇気にもなるものだったから。
大丈夫。いつだって死ねる。わたしはいつだって死ねるのだ。

疲れたなあ、しんどいなあ。
ぼんやりとした疲労というのは不思議で、運動による疲労のように身体が動かなくなってしまうようなことはなく、それでもロボットのようにインプットされたみたいに反射みたいにタスクをこなす。クリック、エンター、デリート。クリック、エンター、デリート。気分とは反してまるでダンスのように軽やかに、緩やかに死へと向かっていくワルツのようだ。
ヒールの低いパンプスを引きずって、重いドアを押して会社を出る。辺りはとっくに真っ暗で、コンビニから漏れる灯りと電灯だけがわたしを歓迎してくれた。都会の空に星なんてないから、人工物の光だけがわたしの最低限の足元を証明してくれる。
しんどいなあ、やめちゃいたいなあ。そう思うのに、優秀なわたしの脳みそは明日の起床時刻を逆算していく。
明日のわたしは何時起き? 明後日わたしは何時起き? 明明後日わたしは何時起き? 意味も必要もない疑問に上がる解答は一つきり。身体の芯まで染み付いたルーチンワークを、きっとわたしはこなし続ける。

漫画みたいに突然現れた大型トラックに撥ねられたら。
ああでも、トラックの運転手さんがかわいそうだ。

足元を踏み外して、走ってくる電車に跳ね飛ばされたら。
ああでも、小間切れになったわたしを処理するのはきっと大変だろう。

どこかの断崖絶壁から転がり落ちれたら。
ああでも、そんな遠くへ行ける電車はもうとっくに動いていない。

人に迷惑をかけながらでしか生きていけないのに、人に迷惑をかけなくては死ぬことも許されない。
ああ、しんどいなあ。やめちゃいたいなあ。もしこの身体に電源のスイッチがあって、オフにしたら勝手に止まってしまえたらいいのになあ。身体はなんだかいい感じに焼却処分だとかになって、お金も掛からなくて、痛くもなくて、いっそのことあんなやついなくなってよかったって誰もが笑ってくれたらいいのになあ。全部やめたいなあ。死んじゃいたいなあ、でも死んじゃえないなあ。
帰ってシャワーを浴びて、化粧水だとか乳液だとかをたたき込んで、ベッドに沈んでアラームを待つ。
かつてのわたしがそわそわながらヘッドホンを通して聞いた深夜のラジオのなんともいえないノイズ交じりの笑い声も、最近は思い出せなくなってしまった。
何度も頭の中で言葉が反芻する。意識しなくてもきちんと帰れる優秀なわたしの足は、きっと明日も優秀で、つつがなくわたしを会社へ運んでいく。そうやって昨日も今日も明日も明後日も、なんてことのない毎日をようやくなんとか生き延びていく。

「オネーサン、こんな時間まで何してんだ?」

その不思議は、コピーアンドペーストのわたしの毎日に突然舞い込んできた。

「え」
「聞こえなかったかァ? もうオネーサンみたいなイイコなオンナノコは寝る時間じゃねェの」

終電から三番目の電車には乗れるだろう。そんな分析をしてた冷静な脳みそに、わたし以外の意識が割り込んでくる。そんなことはなんだか久方ぶりで、つい反射が遅れてその音を追った。
もう人気のないバス乗り場のベンチに、燃えるような赤い影が座っていた。眩しいそれが街頭に照らされて、わたしの視界でチカチカする。
影がわたしを見あげていた。よく見ればそれは人間で、剃り込みの入った頭に、顔には刺青まで入っている。
気合の入ったヤンキーだな。不可解な現象や恐ろしさの前にわたしが思ったのはそれだった。

「仕事を、してました」
「へェ、オトナってこんな時間まで仕事してんだ、スゲェな」
「すごい、かな」
「スゲーだろ」
「わたしだけじゃなくて、みんなしてるし」
「は? そゆの、他のヤツカンケーなくね?」

スーツの仲間たちは目を伏せて早足でわたしたちを追い越していく。きっと彼らも先ほどまでのわたしのように本日のルーチンワークをこなすためにそうしている。業務外スケジュール外の面倒など御免だということだろう。
わたしだって当事者でなければ、きっとここにいたであろうだれかをパンプスを叩く音で蹴っ飛ばして、記憶の外に吹っ飛ばしてしまうに違いない。

「オレ、シャカイジンってどんなか知らねーンだけどさァ、朝とか何時に起きんの?」
「六時半」
「うげ、ゼッテームリ。オネーサンすげーなァ」
「え、ええ、そうかな」
「早起きの天才じゃね? オレらなんて寝る時間だぜ、それ」
「夜は寝た方がいいんじゃないですかね……」
「あ? なんか文句あんのかテメェ」
「ナイデース」

真っ赤なバチバチの不良くんは、不良っぽい語尾がちょっと間伸びした喋り方でわたしに話しかけてくる。
当初はナンパか何かと思ったが、それにしても誘い文句の一つもなく、もしかしてただの退屈しのぎなのかもしれない。自由だな。他人をあっさり巻き込める能力、すごいなあ。なんだかとても疲れた身体にはそれが染みて、やけに感心してしまう。
コピーアンドペースト、横並び、右ならえ。同じような時間に目を覚まして、同じような時間に発車する電車に乗って、同じような時間に出社して、同じような仕事をこなして、同じような時間に同じような食事をして、同じような時間に仕事を終える。わたしの世界はそんな感じでできている。
だからだろうか、そのヤンキーは風貌も、その口調も恐ろしいのになんだか懐かしい響きで、言いようもない生命力のようなものを感じた。
自由にする、流れに沿わないというのは案外難しくて、多くの力がいる。きっと彼の体内にはそういうものがたくさんあるのだろう。それは久しくわたしになかったものだ。

ふと、彼のような人は死にたいって思ったりしないんだろうか。なんとなく思った。
寝坊してアラームに頭を抱えて死にたくなったり、ヒールが排水溝の隙間に挟まって死にたくなったり、二時間かけて作ったデータを保存し忘れて死にたくなったり、ミスって押した自動販売機から甘ったるいコーヒーが出てきて死にたくなったり、イイヒトぶりっ子を逆手に取られてデスクに書類を積まれて死にたくなったり、エンターキーを打ち間違えて一文字消してしまって意味もなく死にたくなったり、コンビニで交通系ICカードの残高の不足で死にたくなったり、そういう死にたいを感じることはあるんだろうか。
ヒールの居住まいを正しながら、目に入ってきた割れ掛けの点字ブロックを眺めた。端っこが欠けていて、ヒビが入っている。
先月、あの点字ブロックの凸凹にヒールを引っ掛けてつまづいた。勢いよく転んだわたしは無傷ながらもストッキングが裂けてしまい、朝から慌ててコンビニに駆け込んだのだ。そしてその時、やっぱりわたしは死にたくなった。

「君はさあ、自販機ミスって押して、ブラックコーヒーのつもりが甘いコーヒー出てきたら、どう思う?」
「……は? ンだよいきなり」
「まあまあ」
「……甘いのもウメェんじゃね」
「ああ! うん、そっかあ」
「ア? 何一人で納得してんだテメェ」
「いいや、いいこと聞いたなって思って」
「あ?」

ああ、わたしすごく甘いコーヒーを飲みたい。とてつもなく、わたしはそう思った。
それもミルクも砂糖もマシマシで、ほのかにコーヒーの名残が香るかどうかみたいな絶大なほど甘いやつだ。多分きっと口に合わないけど、それを飲んだくらいじゃわたしのなかなか健康な肉体は死んでくれたりはしないだろう。

「ねえ、きみ、コーヒー飲まない?」
「は?」
「すっごい甘いやつ。おごったげる」

死にたいを生きたくないって言い換えて、そしたら案外死にたくない気がしてくる気がした。
しんどくって、やめちゃいたくて、疲れちゃったから生きたくないけど、もししんどくなくなったら、もしやめちゃいたくなくなったら、もし疲れちゃわなかったら、案外死にたくないのだ。
いつだって死ねる。いつだって死ねるから、今死ななくってもいい。
まだ今日も生きてるよ。まだ今日も生きてくよ。ひとまず一旦、それでいいじゃないか。

煌々と光り輝く自動販売機に小走りで向かって、百円玉と迷って五百円玉を入れた。購入可能を示すランプが端から端まで点灯する。迷うことなくいちばん甘そうな銘柄を押すと、後から追ってきた不良くんも少しだけ躊躇った後、同じものを押した。
プルタブを開けると、軽い金属の音が静かな夜に響いた。缶コーヒーなんて久しぶりだった。飲み切らなきゃいけない非効率を視野に入れなきゃいけないから。

「どのくらい甘いかな」
「まー、飲めばわかんじゃねーの」
「それもそーだ!」

駅前のなんてことない鮮明な黄色の割れかけの点字ブロックも、それでもきっと誰かをどこかに運んでいる。

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