ユスリカ

友人のていのいいサンドバック、それが本日のわたしの役割だ。
頭の上から被せられる、勢いばかりの罵詈雑言。今日も今日とて彼女はずうっとイライライライラ、腹の中に幾つかの虫でも飼っているんじゃないのかってくらい、美しいリップで彩られたその小さな口から溢れるのは汚い言葉ばかりだ。
職場のババアが気持ち悪いだの彼氏が自分を放っておくだの母親がうるさいだの、すでに毎度のルーチンと化しているそれらを右から左に捨てていく。彼女の目の前にあるパスタの皿はとっくに冷めていて、先ほどまであんなに魅力的だったそれは油っぽい小麦粉の塊だ。きっと彼女はあと十五分後くらいに、文句を言いながらそれを口に運ぶのだ。
先に食べてしまえと言っているのに、いつも彼女はわたしの言葉を聞きやしない。こう言う時の彼女は、全て吐露してしまわないと腹に何も入らないのだ。きっと日々のストレスで、お腹がいっぱいになってしまう体質なのだろう。
優しいわたしは、彼女の罵詈雑言の雨嵐を聴いて、何度も頷いたふりをしてやるのだ。たまにその中の単語の幾つかの言葉を拾ってやって、適切な形で、彼女を肯定する形で返してやればいい。わたしは彼女をやり過ごして、酸味が効いて美味しいあたたかいペスカトーレを食べ、美味しいワインを飲み干した。この店はトマト系のパスタが美味しいのに、彼女は今日もクリームたっぷりのカルボナーラだ。喋りたいがためにくるのだから、せめて冷めても美味しいものを食べればいいのに呆れたものだ。

「でね、あのババアったら、家に帰ってきてお見合いしろって! あたしだって結婚したいってば」
「そうよねえ、頑張ってるもんねえ」
「絶対にプロポーズさせてみせるんだから」
「うふふ。式には呼んでね」
「もちろん、一番良い席をあげる!」

彼女はわたしの行動にあまり関心がないので、わたしが先に食事が終わっていようと気にも留めない。
きっと一通り喋り終わった後に気づいていつの間にって顔をするのだろう。もしかして他所でそれについて文句を言っている可能性はあるかもしれないが、彼女の理由のない怒りなど、今更まともに取り合ってくれる人などいないだろう。ただ一人、わたし以外には。

恋人に振られたばかりの傷心の彼女にひどく優しく声をかけてくれたのだという伊丹と名乗る男は、それは良い男なのだと彼女は語った。
美しい顔に、美しい肉体、美しい所作。洗礼され尽くしたそれに出会うことができた幸運に彼女の瞳は、それまで不幸のどん底だったというのに光が反射したようにキラキラと輝いていて、わたしはそれをとてもとても綺麗だと思った。
彼女は伊丹に振り向いてもらおうとそれはもう努力を重ねた。
スキンケアに洋服、ヒールの高い靴も足を挫きながら練習をした。ぽっこりしたお腹ではいけないと苦手だと言っていた運動まで始めて、転職もしてからは収入も随分と良くなったのか、今まで名前くらいしか知らなかったのだというブランド店も覗くようになり、それはそれは見違えるほど美しい女になった。
同じ女として、彼女の友人として、そうした彼女の努力と結果を褒め称えてやりたいと心底わたしは思っている。そして彼女はその成果を評価されたのか、彼女は伊丹とようやく結ばれたのであった。

彼女と出会ったばかりの頃、その当時の彼からのプレゼントなのだと笑っていた使い込まれた可愛らしい鞄は、いつの間にか有名ブランドのロゴの入ったバーキンになっていた。今の恋人である伊丹のイメージに合わせたのか華やかなネイルも真っ赤なリップも、彼女によく似合っていた。
見た瞬間、この人はうまく行っているのだなと思わせるような女に彼女はなっていたのだ。

この世の春と言わんばかりだった彼女だったか、最近はどうやらその伊丹とうまく行っていないのだと言う。
紳士的だの、彼女の希望でどこにデートに一緒に行っただの、その際素敵なワンピースを新調しただの、ニコニコ話していたと言うのに、最近はそんな言葉も聞いていない。彼女の口から発せられる男の話は職場で腰を抱いてくる気持ちの悪いおっさんだとかばかりで、数人はいたはずの兄弟の話すらも聞かなくなってしまった。
伊丹を大変好いている彼女は、また彼に振り向いてもらおうとさらに努力を重ねているようだった。そういえばファンデーションのノリもいいし、小さなお尻もキュッと上がって可愛らしくなってきている。本格的にスポーツジムに通い始めたのだと聞いた時には随分驚いた。
本当に好きなのねと言ったわたしに、そうよって本当に嬉しそうに笑ったのだ。彼女のそういう顔を、わたしは久しぶりに見た気がした。

「たくさん話聞いてくれてありがと! スッキリしちゃった」
「いいのよ。友達だもの」
「やさし〜! 今日はあたしが奢っちゃう!」
「本当? じゃあ甘えちゃおうかなあ」
「もちろん。あ、お会計カードでお願いします」

彼女は気づかない。
誰かの良心から引き起こされる耳の痛いほどの叱りの優しさの言葉を。愛おしい恋人はすでに他所で幸せを築いていて、すでに自分との関係など形だけになっていることを。彼女の両親が心底彼女を気にしているその愛情を。
彼女は気づかない。
虚栄心と自尊心ばかりが肥大して、もう彼女の手元はいっぱいいっぱいなのだろう。優しさからくる言葉は彼女の耳をすり抜けて、無関心からくる上部ばかりの同調だけが彼女の世界だ。
愛されたいって言いながら、誰かに見てほしいって喚きながら、目を閉じて身を縮めて、何にも見ようとしないままジタバタと全てを蹴り飛ばしていく。
自分を慰めることに必死になって、そのためにならなんでもできるようになってしまった。
かわいい自分が一番かわいいから。かわいそうな自分が一番かわいそうだから。そうやってそうやって言い訳をしていくうちに、彼女の自我ばかりが大きくなっていく。
それが正しいとか間違っているとか、目を閉じてしまった彼女には見えていない。けれどそれを気づかせてくれようとしている周りの人は、彼女にとってはノイズになってしまった。何せ、彼女の法は彼女が正義なのだ。

「ご馳走様、美味しかったね」
「また来ようね!」
「ええ、もちろん」

大きなロゴの財布を持つ彼女の指先で、紫と金の派手な色のネイルが輝いている。それは彼女の周りの彼女を心配する人々を煽るのに一役買ったに違いない。きっとわたしだけがそれを褒めたのだろう。だから彼女に選ばれた。だから彼女の手元に残された。

彼女は気付かない、ふりをしている。
愛しの彼のそばにいるための綺麗なワンピースが、最後の味方とした友人に媚びるためのレストラン代が、素敵だったからとお土産にしてくれた香水が、薄い紙となって重く彼女の人生にのしかかっていることを。

駅前で自分は地下鉄を乗り継いで帰るのだと言う彼女と別れると、そのまま構内を通り抜けてその先を少し歩いた。ヒールの軽い音が響く。
アルコールの入った身体に、夜風が心地よく吹いていた。

「お疲れ」
「ええ、お疲れ様」

約束通りの場所で、ガードレールに寄りかかって煙草をふかせる蘭と合流した。どうやら一度家にでも戻ったのかいつものスーツではなく、少しラフな格好だった。
彼はわたしを認めると小さく手をあげ、短くなったタバコをもみ消す。たったそれだけの所作が様になる、相変わらずとても美しい男であった。

「酔ってる?」
「ちょっぴり楽しいくらいかな」
「帰ってオレと飲み直そ。スゲー楽しくなるくらいまで」
「ふふふ。もちろん」

わたしたちは彼の横付けした車に乗り込んだ。
車酔いしやすくなるから嫌だと言ってから蘭は車内でタバコを吸わなくなったので、最近はドライブも悪くないなと思い始めている。それを知っている蘭は、きっと今日も気ままに走って、少し寄り道をしてから部屋に帰るのだろう。夜景の綺麗なところがいいな。コンビニで適当にちょっと高めのデザートを買って帰るのもなかなか魅力的だ。
蘭の横顔に通り抜ける街のライトが当たって、キラキラ輝いていた。美しい男には、ただの光をスポットライトにする魔法がかかっている。

「ねえ」
「んー?」
「プロポーズさせてみせるんですって」
「はは、ガンバるねー。知らねーけど」
「そんなこと言ったら彼女泣くわよ、伊丹さん」
「だってオレそんな名前じゃねーもん」

適当につけてそのままにしているのだろうラジオから、十数年前のヒットナンバーが流れ始めた。もどかしく可愛らしい少女の恋と葛藤を描いた歌詞が当時多くの男の子の胸を刺したものだったが、この色男にはあまりにも縁がなさそうで、似合わなくて、ちょっとだけおかしかった。

「ひどい男」
「ひどい女にはお似合いだろ?」
「わたしは優しいわよ。一番のお友達にしたいくらい」
「ハハ!」
「彼女のこと、本当に尊敬してるし、いつも感謝してるの。だからちゃんと理解ある一番の良いお友達をしてるわよ」
「ホントか〜?」

眩しい光には、美しい光には、有象無象の虫が寄ってくる。それが何のための光なのか、虫はいつだって知り得ないままに喰われていく。

「ええ。だって彼女、お店のナンバーワンだもの。とってもガンバっている女の子にはとびきり優しくしてあげなくっちゃあ、かわいそうでしょう?」

美味しいものをちゃんと食べようとしないから、最後に割りを食うのだ。
分厚いフロントガラスから入り込んできた光が、わたしの声にけらけらと楽しげに笑う蘭の左手の指輪をキラリと輝かせて、すぐに消えた。

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