ゆらゆら、君の宇宙で漂っている

押し付けられるように唇が押し付けられると、カサついた表皮の奥にあるやわらかな肉がひたりとわたしに張り付いて、追って彼のわたしより随分高い体温がわたしの元にやってきた。
上唇と上唇、下唇と下唇、まるで蕩けて一緒になってしまったように重ねられるともう主導権などわたしの手元から去ってしまい、彼のそれに成すがままされるがままにこじ開けられ、わたしのものでない吐息が、いつしかわたしの身体に吹き込まれていく。
先程まで飽きるほど髪を撫でていた左手がわたしの右の耳をすこうしだけ触れて、もう一度後頭部をなぞると首根を支えた。わたしの逃げ場をみんな塞いでしまうと、その綺麗な形で整えられた色の薄い唇の端っこでうっすらと笑った。その顔がどうしようもなく嬉しそうに見えるものだから、わたしはこの人からはきっと逃げてしまうまいと、いつも思うのだ。
我が物顔で入り込んでくる分厚い肉が、わたしのそれと絡み合って何度も吸い上げてはいたずらに離れ、歯の一つ一つの形をまるで確認するように丁寧に撫でてゆく。
きっとわたしの歯の形などすっかり覚えてしまっているだろうから、いつかわたしが事故や事件に巻き込まれて顔も潰れて死んでしまったとしても、この世界で彼だけはキス一つでそれが本物のわたしかどうかを突き止められるに違いない。

竜胆と深いキスをすると、時折彼の少し伸びた犬歯がわたしの唇や舌を掠める。
普段はそう目立つこともないそれが存在感を帯びてしまうほどに近しい場所にいるのだとわからされているようで、触れるたびについ意識をしてしまうようになってしまった。それを知ってか知らずか、わたしがむず痒い顔をするたびに呼気だけでまた楽しげに笑うのだ。
何度も何度も、尖ったそれを落ち着けて、たまにわたしの肉を挟んで軽い力で噛んでゆくので、いつかわたしの皮膚を貫いてしまうんじゃないかとハラハラしてしまう。きっと口内炎になって、しばらくは何を口に入れてもヒリヒリして、白く跡が残って体液が固まって瘡蓋のようになるのだろう。それ治るまでの間、その痛みが脳を駆けるたびにわたしは何度も竜胆の小さな犬歯の形を思い出してしまうに違いない。彼が好んで散らす首筋のキスマークなんかより、もっとずっとタチの悪い呪いのようだ。

朧げなまま思考の海に沈むわたしに、まるで集中しろとでも言いたげに竜胆は強くわたしの舌を吸い上げた。
自分のせいでわたしが酸欠になっていることなんて理解しているはずなのに、それでもわたしはわたしの自我を強いる。それでも此処に居ろと言い聞かせるのだ。

「はは、きもちーな」

まだ互いの唇が触れたままで、彼が笑う。釣られて蕩けきったわたしの唇もそれを追い、辿っていく。
逞しい腕がわたしの腰に回ったまま、ほとんど持ち上げるようにわたしを支え、そして拘束する。高いスーツが皺になるよと注意したいところだけれど、わたしの言葉は呼吸とのともに彼に食われてしまうし、きっと言ったところで応じてくれることはないだろう。身体の間に挟み込まれていた腕を首に回すと、そんなわたしを褒めるように可愛らしいバードキスが唇の真ん中に落とされた。
重力に逆らう不安定さに爪先は地を探し揺らいでいるのに、竜胆は決してそれを許さない。縋るものを自らの身体にのみ赦し、呼吸を奪い、思考を揺らしていく。
縦横無尽に咥内を掻き回し、とっくに知り尽くしているはずのそこをまだ足りないのだと言わんばかりにこねくり回して探してゆく。ちいさな子供が同じ遊びを繰り返すように、何度も何度も同じことを飽きることもなく繰り返す。もうお互いいい歳と呼んで差し支えないというのに、飽きることも懲りることもなく、わたしたちは同じことをなんども繰り返す。
すっかりその全貌を暴かれているわたしの身体をわたしはただひたすらに明け渡すことしかできず、この地球上でわたし一人が、彼の作り上げる無重力の中でゆらゆらと漂い続けている。

散々辺りを蹂躙しつくした舌がとろりと最後に私の舌の裏を撫でて離れると、今度は前歯がわたしの上唇を食んだ。歯並びまでもが誂えたように整った彼の、あの小さな犬歯がわたしの肉を柔く突き刺さる。いまにもこの肉を食いちぎって貪ってしまわんとばかりに、ギラギラした獰猛さがその中にじっと息を潜めている。

いっそこの皮を引き裂いて、肉を噛みちぎって骨までしゃぶってくれたらいいのに、いつまでたってもこの獣は舌なめずりをしながら、大口を開けて涎すらも啜りながら、それでも獲物であるはずのわたしを丁寧に囲って、生かして、買い殺し続けている。
唇で、舌で、歯で、わたしを舐り、吸い上げ、侵食し、嬲る。
口蓋垂まで届きそうな長い舌がべったり上顎を撫ぜていき、わたしの言葉を、声を、舌を、唇を、呼吸を、容赦なく飲み込んでいく。目には見えないものばかりが、彼に吸い上げられて彼のものになっていく。形のあるわたしの肢体だけが、丁寧に下ごしらえされながらも、形を残したままいつまでも取り残されている。
ああ、羨ましい、羨ましい、妬ましい。どうしてお前たちだけ。浅ましいわたしの中の欲望が、沸々と湧き上がっていく。

「オイ、目」
「ん」
「ん、いーこ。そのままな」

きつく結んだ目頭に、先ほどまでわたしの咥内を蹂躙しつくした唇がちいさく落とされる。
必死に結び目を解いて目蓋を開くと、竜胆の煮えたぎった紫の瞳がそこに在ってわたしのそれと絡み合う。
気がつくと、ぶらぶらと浮いたままの足には彼の足が絡みつき、わたしと竜胆は体のそこらじゅうが隙間もないほどぴたりと張り付いていた。
竜胆は時折わたしをこうしてしまう。自らのその逞しい両腕だけに縋るように仕向けて、自由も意志もみんな奪って前後不覚に貶めてしまうのに、最後のほんの少しだけの意識だけは残して、そこに我が物顔居座るのだ。

室内には彼とわたしが呼吸するわずかな声と、唾液が絡みあう水音と、竜胆がわたしを抱え直した時に起きる衣擦れだけが響く以外は無音であった。外界の音がほとんどシャットアウトされてしまうこの立派なつくりの部屋には、この小さな宇宙の神様である彼が許した、わたしと彼自身が生み出す音しか生まれないのだ。

酸欠でぼうとする頭では彼の美しい顔をようやく認識するので精一杯になってしまうのだから、わたしなんて簡単に彼の思うままになってしまう。
思えば最初の時からそうだった。みんな彼の思うままにされるばかりだ。それでもいいとわたしも享受してしまうから、わたし達は留まるべきかたちを無くしてしまったまま、ゆらゆらと漂っている。

視線が絡み合ったまま、彼がまたわたしの舌を思うままに弄ぶことを再開した。表面がすこしざらついているからか、撫でられるたびに神経にそのまま触れるような心地になるので、あっという間にわたしもその気にされてしまう。
わたしからもそれを差し出して彼のものに絡ませると、彼の垂れた目尻がほんの少し緩むのが見えた。
それは、この小さな宇宙にわたしというものが許されているという証明であった。

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