こどものくに

真っ白なレースに憧れていた。
恐らく世界中の誰もが一番に描くであろう、幸福の象徴。

まだわたしがランドセルを背負っている頃の時分であったはずだ。
毎日泥だらけになるほど遊んで、自分の身なりなんかよりも目の前の楽しさの方がずうっと魅力的に見えていた。
将来のことなんて朧げで、目標だとか、夢だとかに関しても「お花がきれいだからお花屋さんになりたい」と答えてしまうほど、世界が単純にできていたのだ。

それを初めて見たのは、両親に連れられて行った、遠い親戚の結婚式だった。
汚れひとつ許さないほどの真っ白で繊細な何重にもなったレースに差し込んだ光を纏って、きらきらきらきらと瞬いていた。
式の最中、荘厳な教会の真ん中で立つ花嫁のレースの輝きを、わたしはずっと追っていた。お絵描きをすることもテレビゲームをすることもできない退屈なはずの時間を、その輝きが瞬く間に変えてしまったのだ。
あの輝きが欲しかった。恋愛だとか結婚だとか、そういうものは一つもわからなかったけど、わたしもいつかその輝きを纏って、そこに立ってみたかった。きっといつか自分もそう在れるのだと、あの純白を纏って、あのきらきらを手に入れることができるのだと、幼かったわたしは一つきりだって疑いもしなかったのだ。
それが届かぬ夢になるのだと知っていたなら、いつかのわたしは歩む道を選ぶことができたのだろうか。

廃工場は埃臭くて嫌いだ。いやに広くて、夏は暑くて冬は凍えるように寒いし、剥がれ落ちた古いトタンは踏みつけるといやな音を立てて罅を入れる。錆びた工具がそこかしこに落ちていて、気をつけていなければ足を取られて転んでしまいそうだった。何より、廃材ばかりがそこかしこに積まれているから、対象に一度逃げられると追い込むのが手間なのだ。息を殺して隠れられてしまうと時間ばかりが潰されてしまう。
だけどわたしは工場のその高い天井だけは嫌いじゃなかった。かつて見た、美しい花嫁をただ祝福していた、あの美しい教会みたいだから。

その工場の真ん中でわたしは、死んだ恋人をビニールシートで包んでいた。
否、先ほど後頭部に一発入れた程度なので、もしかしてまだ息があるのかも知れなかったけれど、結果としては同じなのでどうでもよかった。
自慢話が好きな男だった。お調子者で見栄っぱりで、しょっちゅうわたしを連れ出してはフレンチレストランを巡りマニュアル通りのワインの蘊蓄をたれ、外車を乗り回しては下品に笑う男だった。男が動くたびに贅肉い間れて悲鳴を上げていたアルマーニはもう血まみれで、折角職人によって美しく作られただろうに、最後まで本当に悲惨な運命であったなと思う。

きっともうすぐ部下を連れて竜胆がやってくる。本当はわたしがここまでする必要はないのだけれど、こういうものは処理が早いほうがいい。青いビニールシートに包まれて見えなくなっていく恋人であった男の顔は、最後の最後の死に顔まで不細工だった。

東京卍會。それが現在わたしの所属する組織の名前だ。
碌でもない親族と、碌でもない恋人と、碌でもないわたし。すべてが足を引っ張りあって、かつてただの夢みる子供だったはずの小さな少女の人生は、些細なきっかけからあっという間に滑落して、気づいたらわたしは血溜まりの中に立っていた。
後悔はない。どうせ何度やり直したって、同じような道を歩いて行くのだろうから。そうしなければ生きていられない人生だって、この世にはあったのだ。
けれど、たまにふと思い出すのだ。あの日ずっと追いかけた、誰もに祝福された花嫁の美しい純白のレースの輝きを。

「終わったか?」
「ええ。抜かりなく」
「うわ、もう運ぶ用意までできてんじゃん。やるう」
「デキる女だもの、わたし」
「さすがっスわセンパイサイコーマジカッケー」
「たまに出てくる君のソレ、ほんとに何?」

ヒールの靴で廃材を避けて歩くのはなかなかに手間で、竜胆から差し出される手を素直に取ると、そのまま肩に担ぎ上げられた。ヒールを履いてしまえばわたしと身長もそう変わらないというのに、余すことなく鍛え上げられた肉体を持つ竜胆は、こういう時大変頼りになる逞しい男であると思う。
きっとこれは竜胆にとって乙女チックはアレソレではなく、恐らく単に効率の問題だろう。わたしとしても、薄いストッキング一枚しか守るもののない足のままで歩いて、どこかにひっかけてしまっても嫌なので大変助かる。

「あのオッサン、何かゲロったか?」
「脱税と賄賂、献金の件に関してはデータ抜いてきたわ。あんまりセキュリティがぬるいから、失敗したかと焦っちゃった」
「バカだな、悪ィことすんの向いてねーじゃん」
「ああ、あと年端のいかない若いお嬢さんがお好きだったみたい。お仲間たちとお戯れになったときの愛らしい写真がどっさりよ」
「キモ。死んでよかったな、世界を平和にしちまったよ」
「あら、あれでもほんのひと時とはいえわたしの恋人だった男なんだけれど」
「……仮でも嘘でも言うのやめてくんね、それ」
「ええ、そうね、わたしも命が惜しいわ」
「そーして。大将が怒っても、オレら止めらんねーもん」

ゆらゆら、竜胆の動きに合わせて視界が揺れる。
工場の前に横付けされているのであろう車まで、どうやら直行便にしてくれるらしい。わたしに触れる彼らの手に、例えばわたしの恋人だった男のような気味の悪いいやらしさはなく、彼への従順と、わたしへの親しみだけに満ちている。
それをよく知っているから、我らが王はそうすることを許している。わたしも竜胆も、正しくすべては王のものなのだ。
王にとって、国民は子だ。子供だらけの世界だからこそ、やわらかいふれあいが赦されている。

「ねえ竜胆、雑談ついでに聞いてくれるかしら」
「いーよ。何?」
「わたしね、昔、花嫁さんになりたかったのよ」
「え、何それカワイー」
「純白のレースにぴかぴかのステンドグラスに素敵な旦那様。世界の誰もがわたしの幸せを祈ってくれるの」
「やればいーじゃん。大将なら喜ぶだろ、あれで案外ロマンチストだぜ」
「できるかしら」
「できるって」

大きくなってもお調子者の気を残している竜胆は、こういう何の気もない話にはちょうどいい。わたしの何気ない本気の願いを、いい具合に聞いて、悪びれず簡素に賛同してくれる。
これが彼の兄の蘭なら、日暮れには衣装も式場までをも手配してしまいそうだし、鶴蝶や莞爾ならしっかりと聞いてしまうので、うろたえてしまうに違いない。そも、あの二人は女性に誠実すぎるきらいがあるのだ。
叶わなくてもいい願いがある。叶えたくもない祈りがある。
誰にも望まれなくてもかまわない。誰かに祝福されたいなんて思わない。ありきたりの幸福なんて望まない。
誰も彼もに指をさされて呪いを吐かれても、最期の瞬間に罵詈雑言を並べたてられて嗤われても、わたしの王の望む世界にわたしの世界があるのだから。

「でもさー、ドレスは純白じゃなくて赤じゃね?」
「ああ、そうね。とっても素敵! わたし、それがいいわ」
「式すんなら絶対呼んでくれよ。兄貴も鶴蝶もモッチーも呼んでさァ、デッケー会場貸切って結婚式しよーぜ」
「真っ赤なタキシードを用意したら、イザナは着てくれるかしら」
「いーな。オレ、祝いたい結婚式なんて初めてだわ」
「じゃあわたしはまずプロポーズの言葉を考えなくっちゃ。彼が思わず頷いてしまいたくなるほど魅力的じゃなきゃね」
「途中で花でも買ってく?」
「素敵だけどダメよ、帰るのが遅いと拗ねちゃうもの」
「それもそーだ」

竜胆の肩から降ろされて、わたしたちはそのまま雑談交じりに車に乗り込む。それを確認した運転手が、静かに車を発進させた。
どんなうつくしい理由があっても寄り道はせず、無駄なこともいらない。帰る場所はいつだってたった一人、わたしたちの愛しの王のもとだ。

このプロポーズがうまくいったなら、血だまりのヴァージンロードで、苛烈なほど真っ赤なドレスを着よう。
誰よりも高いヒールで絨毯をかき鳴らして、頭のイかれた参列者だけを揃えて、血しぶきみたいなブーケトスを、おかしくなるほど、子供みたいに笑いながら高らかに投げてやろう。
清らかな愛を語る神父も神様も、みんな首を刎ねては並べてしまって、我らが王の祭壇を美しく彩るのだ。
世界で一番赤が似合う彼の隣には、きっとこんなわたしがもっとも相応しい。

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