キミはともだち

わたしの人生の小さな転機に、わたしよりも悲しんだのはいつだってエマだった。

「フっちゃった、彼氏」

わたしとわたしの恋人だった男は、あるとき趣味が合致したことで意気投合した、四方八方どこから見ても仲のいいカップルだった。
絶賛片思い中だったエマはそれをいいなあいいなあ、すてきだなあっていつも言って応援してくれたし、わたしはそれを喜んで受け取った。
彼とは、好きな漫画の傾向が似ていた。
映画もお互いアクションが好きで、本屋に行けばファンタジー小説をあれこれと一緒になって漁った。何を打ち合わせなくとも自然と行きたいところが一緒になる関係はとても楽しかった。
こんな二人だから、それのきっかけなんてちっぽけで、本当に大したことはなかったのだ。
誰に話しても「そんなことで」と言われてしまうだろう。わたしだってそう思うのだから、きっと誰でもそうなのだ。

わたしは、彼が友人にわたしを「コイツ」と紹介するその音が嫌いだった。
もともと言葉尻があまりきれいな人ではなかったのだが、いちばん最初に嫌いになったのはその音だった。そのあと必ずと言っていいほどすげえ変なやつでさあと続けるから更に嫌いになった。
それは所謂仲のいい同士の会話だったのだろう。仲がいい同士だからこそ、相手が許すことを前提とした軽んじだ。快くは思えもしなかったけれど、しかしわざわざ怒る程度のほどでもなく、いわば広い庭に一本生えた小さな雑草のようなものであった。
彼からすれば「同じように軽いノリで言い返してくれれば」「一言言ってくれれば」という話なのだろうけれど、失礼な言い回しをわざわざ口にすることはわたしにとって困難極まりなく、言ったところで感覚の違いでしかないと言って聞いてくれることはないだろうと、結局最後にわたしは口を閉じるしかできなくなってしまっていた。
咎めるほどでもない小さな暴言、否定するほどでもない小さな悪態、嫌味にもなりえない小さな愚痴。
小さな雑草は数を増やし、次第に全体に広がった。そのころにはあんなに毎日楽しく話していたはずの本の感想のことも、彼の言葉尻も、すべてが雑音のように聞こえ始めていた。綺麗に咲いていたはずの花は、養分までを雑草たちに吸い上げてしなびていった。
手折られたわけでも、踏みにじられたわけでもない。彼に非があったなどとはわたしさえも思わない。
ただわたしの庭が彼の想定以上にずっと小さかっただけ。すてきな庭がいつまでもすてきであるように、その雑草を摘む意味を、理由を、いつの間にかわたしが勝手になくしてしまっただけだ。

「ねえエマ」
「ん?」
「エマはさ、ぜったい幸せになってね」

その様々をわたしのいちばんの友人である彼女に聞いてほしいとは思わなかった。自分の失敗の愚痴も、失恋の情けない嘆きも、誰かと共有したいとはわたしは思わないからだ。わたしの悲しさはいつだってわたしだけのものなのだ。
ましてや、彼女の庭にそんな話題を咲かせたいとは思わなかった。彼女の庭はいつでも綺麗で、鮮やかで賑やかで、幸福に満ちあふれていてほしいのに。

「じゃーまず、自分を幸せにしてあげてよね」
「え」
「友達がずっと悲しいまんまじゃ、ウチだってちゃんと幸せになんかなれないもん」

エマは笑ってわたしの手を取った。いつもそんなに変わんないくらいの温度のエマの手は、今日はわたしよりちょっとだけあたたかい。
彼女がいてようやくわたしはいま、それに気づくことができたのだ。

「ヤなことだってぜーんぶウチが聞いてあげるから、言いたくなったら言ってよね」
「それはいい」
「そ?」
「うん、エマとなら、たのしい話がしたいな」
「わかった。じゃあ来週空いたんでしょ? 一緒にバーゲンいこ!」
「うん、なら映画もいきたいな。新作、気になってるの」
「いいね!」

わたしはわたしのことがあんまり好きになれなくて、まだ上手に大事にできないことばかりだけど。
大好きな友達である彼女が大事にしてくれるわたしを、大好きな彼女を大事にしようとしてやれるわたしのことは、前よりもちょっとだけ大事にしてやりたいと思えるのだ。

雑草だらけのわたしの庭に、ちいさな花が咲いた気がした。
この花を何より大事にしたい、今のわたしにはたったこれだけでいい。

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