怪獣たちの夕暮れ

東京の狭い空には、夕まぐれになると怪獣が現れる。
立ち並ぶビル群に切り取られたその隙間をすっぽりと覆うように、その大きな怪獣は忽然とあわられる。
きっとノストラダムスとやらが予言した恐怖の大王とやらは世界の終焉の際にはああいったものを引き連れてやってくるんだろうと思わせるような巨大な体躯は、何に囚われることもなさそうなほど悠然と空を泳ぎ、幼いわたしに圧倒的な存在感を示して消えていったのだ。

子供という生き物は、無知なりにものを考えているものだ。
どんなに速く駆けてもついて回る月の行方を、閉鎖された空間で追いかけてくる遠い足音を、窓越しに見えた人ならざるものの姿を、想像して創造して、形にして証明する。
きっとかつて、化学なんて言葉がこの世界に馴染んでいない頃、妖怪というものはそうやって生み出されていったのだろう。それは形があるものだと思い込むことで恐怖心を紛らわすためだったのかもしれない。いつだって一番の恐怖は理解し得ないものから生まれるものだから。
そして幼かったわたしは、空に虚構の怪獣を産み落とした。
夕暮れのまだほんのりと明るい空を漂う鯨。きっとあのビルなんかぱくりと一飲みにしてガリガリ咀嚼をしてしまうような鯨。夕暮れを過ぎて夜になるとなぜかいなくなってしまう、不思議な鯨。
それなりに成長した今であれば、あれがただの雲の影だったことがわかるようになった。
太陽から影になったことで、まだ明るさを残した空よりも重い色に見えている大きな雲がまるで頭上を覆う怪獣のように見えていたのだと。

「お、今日怪獣いんじゃん」
「うん。いる」
「今日のはデカいなー」
「きっとあの雑居ビルなんて丸のみね」
「ヤベーな、大怪獣じゃん」

幼いわたしは怪獣を見つけては、恐ろしい恐ろしいと千冬に縋りついていた。きっといまあの怪獣はわたしたちを見下ろしてどうやって食ってやろうかなんて考えながら、いつか食べる日をじっと待っているんだろうと。
そのたび必ず千冬は言うのだ。白い歯を大きく見せて、ニッカリ笑って、そんなもんはオレのパンチでやっつけちまうんだって、胸を張って言うのだ。
自分だってノストラダムスの大予言なんか真正面から信じておびえて、最後の日には何をしようかなんて指折り数えているくせに、目の前の巨大な空想の怪獣には一向にたじろぐことはしなかった。
恐怖の方向性が全く分からない友人の姿に、そのうちわたしの恐怖は薄らいで、たちまち消えてなくなってしまったのである。

大予言が杞憂であったことが分かった今も、怪獣は悠々と空を泳いでいる。
形を変え、姿を変え、色を変え、まるで我が物顔で空を占拠する。見上げることしかできないことはあの頃と何ひとつ変わっていないのに、1999年を無事に跨いでしまったわたしたちは、それがいつやってくるものかと数える指の数をしらないのだ。

「ね。昔はパンチでいけるって言ってたけど、今ならどんくらい?」
「今はマァ、オレも強くなったからなー。あんなのもうデコピンで一発よ」
「めっちゃつよつよじゃんか」
「オウ。つよつよなんだよ」

太陽はすっかり水平線の背に隠れてしまって、空の色がゆっくりと濃くなっていく。漂う巨大な怪獣の姿が風にあおられてほころんで、輪郭から少しずつ散り散りになっていく。
わたしたちは並んで歩く。少し前までは所属するチームだとかなんだとかって厳つい特攻服を着て忙しなくしていた少年は、いつの間にかバイトに精を出すちょっと派手な男子高生になってしまった。
わたしも髪を短くして、可愛いけれどちょっと子供っぽいリボンとお別れして、部活とバイトに明け暮れる女子高生になった。
高校生になったわたしたちはもう、あの怪獣がただの雲だってわかってしまっている。頭上をみんな支配していた壮大なシルエットはただの見せかけのハリボテでしかなく、怪獣はそこには存在しないし、鯨が空を泳ぐことなんてことはないのだ。あの大予言の日を踏み越えてしまったわたしたちは、それをみんな知ってしまったのだ。
クリスマスに枕元にプレゼントを置く両親を、古い写真に写り込んだ奇形の物体の真相を、おかしな地球の平和を守るヒーローの仮面の下の顔を、ブラウン管の向こうの魔法の秘密を、窓辺に立っていた人ならざる姿の影の正体を、大人たちがわたしたちに知らしめてしまった。わたしたちはわたしたちが世界の真実を知る前に、世界の正体を知らされてしまった。

「もしかして、大予言も千冬を畏れて消えてなくなっちゃったんじゃん?」
「マジかよ、オレ強すぎじゃねーか」

けれど、もし本当にあの怪獣が人類を丸のみにする日を今や今やと狙っていても、わたしには千冬がいるのだ。だからこの世界はそれだけで、なんとなく大丈夫になってしまう。
だから少なくともこの世界の滅亡はもう少し先の話なのである。

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