沈殿

眠気でぼんやりとしたまま、昔行った市民プールで遊んだ後のことを思い出していた。
まだ小学生だった頃、母親に手を引かれ連れて行ってもらった市民プール。一日中遊び尽くして、帰りにはアイスを食べさせてもらったりなんかして、家に着いた途端に静かで少しひんやりとした畳にとんと寝転がった時の、あの抗い難い睡魔と、まだ体が水中にあるような独特の感覚。わたしは確かにあの日の水中に沈んでいた。
やわらかな水中はとても深くて、どこか冷たいけれど、とても静かで、確かに世界からわたしを隔絶させていた。

その日、わたしはとてつもなく疲弊していた。
お腹が空っぽなのに買ったばかりのパンは三口咀嚼したあたりで続きを噛むことが不快になり、ただ座っていることすら億劫で、縮こまるように身を寄せていた。身体の不具合は、すぐにわたしの神経をも不安定にした。その時その瞬間、わたしはとにかく自らの身を守ることで精一杯だったのだ。
人目につかないところで目を閉じて耳を塞いで、自分に入ってくるものを極限まで制限することで、ようやく少し楽になるような気がした。本当は一睡でもできればよかったのだが、短い時間の休憩時間にそんなことをできるほどの余裕はなく、仕方がないので一番カロリーのありそうな甘ったるい乳酸菌飲料を飲み込んで、買っておいたパンを片手にようやくの気持ちで勤め先の入っている雑居ビルの裏口にきたのだ。
けれどもパンは喉を通らず、返さなければいけない連絡も見ることすら叶わず、仕方がないのでわたしは関係者専用入口の手前の階段に座って、ただじっとすることにした。アラームをかけたから大丈夫と、何をするでもなく、何を気にするでもなくそうしていた。
ビルの中はあんなに騒がしく人間たちが動いていたのに、壁の向こう側であるコンクリートジャングルの中のこのわずかな空間は、驚くほど静かだった。
わたしはこうしてひとりぼっちの海に沈んで、何とかその冷たさに耐えている。

そんな中、わたしの海に波紋を揺らめかせる足音がやってきた。
とてもゆったりとした、少し擦るように歩く男の足音だと、ほぼ反射的に脳は理解した。足音は少しずつ近づいて、わたしの前まできたのがわかる。気にせず通り過ぎてほしい、がそうも行くまい。路地裏のこんな治安の悪い場所で従業員でもなさそうな人間と鉢合わせるのは少々憚れるような気持ちがあったが、疲弊した身体はうまく言うことを聞いてはくれなかった。

「なあ。今、店長いる?」

ようやく首だけを起こし、瞼を上げた時、見えたのはグレーのストライプだった。スーツだ、と理解したのでもう少し上を見ると、顔があった。とても背の高い生き物がそこにあった。随分と背が高いので、まるで怪物のようだった。怪物はわたしを高いところから見下ろして、けれど微塵もわたしを見ていないようであった。その無機質さはやはり、怪物のように映った。

「あ。まだいない、です」
「フーン」

わたしの店の店長は時間にとても厳しい人だ。休憩時間を超えるようなことも、自分も含め遅刻するようなことも許されない。だからきっと、今日も時間通りに出勤するはずだ。従業員の休憩時間が終わる五分前の位置もの時間にはあのひとは顔を出すだろう。

店長の知り合いだろうか。否、そうであれば個人間で連絡を取り合うだろう。
店の関係者か。否、そういった通達があれば従業員にも一報が入るはずである。
抜き打ち検査か。否、抜き打ち前に休憩中の従業員に突撃することに、なんの必要性があるのだ。

一周、二周、考えて。そうしてわたしは考えることを放棄した。

「……でも、多分あと十分くらいで来ます」
「そ。さーんきゅ」

わたしの回答に、怪物は無機質な顔から一変して、ニッカリと笑った。無邪気そうな笑顔が、まさしく絵に描いたような怪物であった。
わたしは、何となく事の様相が見えたような気がした。けれど、今のわたしにはそれを考えるのがとても億劫であったので、全てを見なかったことにして、視線を少し落とした。
怪物は何も聞かないわたしの様子に満足したのか、わたしの隣に少し感覚を開けて座り込んで、煙草を咥えた。わたしの足では二段先に置くのが精一杯の階段を、怪物は四段もしっかり使っているのが見えた。なるほどこれはやはり怪物と言って差し支えないに違いない。

わたしはアラームを消して、目を閉じて、ライターの音を最後に、耳を塞いだ。頭の隅の方に必死に追いやっていた睡魔がわたしを海中の深いところへと誘っていく。煙草のにおいだけが、ぼんやりわたしの海に漂っていた。
ああ、どうやら今日は、いつもより少しだけ長い休憩が取れそうだ。

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