砂上の城

欲求は人にとって重要だ。
三大欲求をはじめとして、欲求というものは大概が身体を不備なく継続させるために必要なものの過不足を示すものだから。
物を食べなくては生きていけないから、腹を満たすために足を動かす。
水を飲まなくては生きていけないから、文明は水場に栄える。
睡眠を取らなくては生きていけないから、大きなあくびが出る。
それは実にわかりやすく、人間として以上に生物として、実に重要なタスクだ。
欲求というのは重要だ。きちんと耳を傾けて声を聞いてやらないと、すぐに拗ねてそっぽを向いてしまうものだから。
そこから目を離してしまったら、人間なんてあっという間に生物としてダメになってしまうのだ。

新宿の空は夏特有の重く、立体的な雲に覆われている。晴天とも曇天とも取れない天井の隙間から時折覗く晴天から、眩しい日差しが差し込んで地上を照らしていた。分厚いガラス越しの外は見かけ以上に茹だるような暑さなのだろう。先程帰ってきたばかりでジャケットを小脇に抱えた竜胆が、簡単な報告を終えた後さっさとシャワー室に駆け込んでいたのがそれを物語っている。陽が落ちれば少々マシになるとはいえ、わたしのこの後の仕事もなかなか覚悟が必要ということだろう。
暑さというものは、寒さ以上に対策が取りにくいので苦手だ。しかしこれも全て彼のためだ、気合で乗り切るしかあるまい。

「ねえ、マイキー、愛しているわ」
「ふーん」

資料の確認をしながら愛を語るわたしを、彼はいつも通り一蹴した。今日もまたイイ切れ味だ。
わたしはその男を愛していた。心の底から愛して、愛して、男の行く非情の道にも躊躇わずについてきた。そもそもわたしは元より、この男よりもずうっと悪い生き物であったため、そうなるのも道理であったのだが。
男はそれを気にも留めなかった。必要であればわたしを使うことを厭わなかったし、それ以上の感情を持ち出しはしなかった。わたしが女という武器をもってどこぞの気色の悪い男たちを弄ぶことも、素知らぬ顔で何事もなかったかのように過ごすのだ。わたしがか弱い乙女であったなら、きっと泣いてしまうに違いない。

「たまには答えてくれてもイイじゃない。ほら、言ってごらんなさいな」
「うるせえよ」
「まあ、非道い人ね」
「さっさと準備しろ」
「ええ、ええ、わかっています、首領」

反社会勢力なんて仰々しい名前を掲げているわたしたち。日本の悪いことの裏側には梵天がいる、なんて噂だってしまうようなわたしたちは、所属する大概の面子が欲深で、同時にそれをよく認識できている人間ばかりである。自分が何が欲しいか、何が必要か、満たされ方をわかっている。そういう意味では案外と一般的な組織なんかよりは統率が取れており、そういうところは嫌いじゃない。
欲しいものは欲しいって言わなきゃいけない。そしてそのために行動しなくてないけない。
そうじゃなきゃ、心と体はあっという間にダメになって、つま先から少しずつ崩れ落ちてしまうのだから。

「準備はど?」
「オーケーよ、いつでも行けるわ」

蘭の運転は、当初の予想以上に穏やかだった。見た目に反してざっくりした気質があるためにもっと荒々しいものかと思っていたが、どんなに安い車に乗っても彼の停止で肩が跳ねた試しはなく、ついつい時間さえ合えば彼に送迎を任せてしまう。
彼自体が組織の中枢であるため裏切りの可能性もまず心配もする必要もなく、人数も少なくて済む。何しろ蘭はおしゃべりなのでドライブの話し相手にはもってこいであるし、わたしも一人の女なので乗るならイイ男の運転する車がいいに決まっている。つまり多少チップを払ってでも依頼したい程の男なのだ。

「チップは振り込んでおくわね」
「それ、来月にはオマエの香水に代わるだけだってわかってるか?」
「アナタに選んで貰った方がセンスがいいんだもの、一挙両得ね」
「カワイーこと言っちゃってさあ」
「フフ」

蘭はいつもの質のいいスーツではなく、少しラフな格好をしていた。髪も崩しているからか、彼の美しい相貌も少々幼くさえも映った。恐らくこの車もカモフラージュのためにどこかで借りたものだろう、彼の所有する座り心地のいいシートが恋しい。
今回の任務は金持ち相手の華やかな舞台ではなく、もっと下賤で小汚い場所だ。わたしも今夜は量販店で買った服なので、なんだかまるでこれから二人で愛の逃亡劇でも繰り広げそうである。そう言ったら、彼は隣でゲラゲラと笑った。品のいい顔をしているくせに、蘭の笑い声はなかなか豪快で聞いていて気持ちがいい。

「なあ、逃げてえ?」
「いいえ? 別段興味はないわね。アナタとなら楽しそうではあるけれど」
「そりゃ光栄だワ」
「そもそもわたし、逃げるも何も、別にあの人のものでも何でもないもの」
「ふーん?」
「アナタだってそうでしょう?」

それ他所で言うなよなんて釘を刺されるけれど、誰に聞かれたところでなんだと言うのだろう。そもそもあの男はわたしの言葉なんて聞き入れはしないし、他の誰がわたしの所在など気にするものでもない。
気にするのは恐らく蘭と、彼の弟と、逐一わたしの言動に食ってかかるあの男の右腕くらいのものだ。後はわたしが組織を裏切りさえしなければ、どうと言うこともない。

「ねえ、わたしマイキーを愛しているのよ」
「うん、知ってる」
「けれど彼、きっと一生わたしの愛を受け取ってはくれないし。わたしを彼のものにもしてくれない」
「うん、知ってる」
「だけれどね、それでも愛する人が空っぽを望んでいるんだもの。わたしは誠心誠意、その願いを叶えなくちゃあでしょ?」

何も失いたくないからって何も手に入れず、欲求から目を背けた愛しい人。
愛など欲しくないと口に出すなら、行為で示すなら、わたしは「そう」で在らなくてはならないのである。
空っぽを望むなら、空っぽにしてやらなくてはいけない。この胸に溢れんばかりの愛を持っていても、決してそれをあの人に注いではいけないのだ。
これは、わたしだけではない。この梵天はあの男の組織でありながら、その誰もがあの男のものではないのだ。どれだけ私たちがあの男の手となり足となり馬車馬のように日々働こうとも、決してその温かい血液が心臓に届くことはない。
全くどうしてかわいそうな男だ。わたしや、この蘭とは元来違う生き物なのだ。悪いことをして誰かを傷つけてしまった時に傷める心を確かに持って生まれてきてしまっているのだ。
それはその心臓に在った誰かが、あの男の中に遺して逝ってしまったものなのだろう。
空腹を感じているあの男の心臓は、つまり、満たされている感覚を知っている。あの男はその肉体が発しているのであろう信号をいまもずっと耳を塞いで、聞こえないふりをしているのだ。

「それにわたし、愛されたいの」
「セックスだってしたいし?」
「あら、レディ相手にそんなに直接的な表現はダメよ」
「そんなタマかよ」
「うふふ」

わたしたちは満たされないのが嫌いだ。渇くのも飢えるのも、決して身体に許すべきではないはずなのだ。
だからわたしは愛をくれる人が好きだし、蘭だって同じだ。生き物でいたいと願う限り、どうしようもなくそこに在ってしまう欲求だ。

けれどそれを他ならぬあの人が望んでいるのなら、それを叶えなくてはならない。それがわたしたち、手足の成すべき仕事なのだから。
そうして爪先から少しずつ瓦解して行くのを、空っぽの心臓がいつか枯れていくのを、その玉座が崩れていくのを、わたしたちは見届けなくてはならない。

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