ラヴ

気付いたとき、わたしの胸には空っぽがいた。

好きな服をクローゼットから選んで、一番わたしに似合うメイクをして、とっておきのピアスをつける。お気に入りのサンダルを履いて、なんの予定もなく家を飛び出す。そういうものが好きだ。
気の合う友人たちを連れ立って出かけるのもいいけれど、最近はどうにも誘うために連絡アプリを開く回数も減ってしまった。仕事に、恋に、家庭に、他の友人の付き合いと足並みを合わせる手間が先立ってしまうことばかりで、なんのしがらみもなかった若い頃のようにはいかないのだ。一人に慣れてしまったまま凝り固まってしまった日常は、他者を受け入れて置くためのスペースを上手に作れない。

都会を歩くのは面白い。ただ歩くだけで知らないものに出くわすように出来ている。
毛先から爪先まで完全武装したわたしは東京の街にふさわしく、そのどれもがわたしを寛容に受け入れた。たくさんの綺麗なものも素敵なものも身体に取り込んで、アテもなくただあちらこちらと歩いていく。たくさんのカップルとすれ違った。誰もが幸せそうだった。いいなと思った。思っただけだった。それが今日も少し、寂しかった。

わたしは恋をしたことがない。
世間でいい歳と称される今日に至るまで、わたしは恋をしたことがない。
良い人に出会ったことがある。格好のいい人も、綺麗な人も、話の合う人も、すれ違ったセンスのいい人も、ちゃんとわたしの脳みそはステキだなって思うことができる。
だけど、その感情にはいつだって「向こう側」がなかった。良い人の隣を並んで歩きたいとは思わなかった。格好のいい人に見つめられても背筋は冷えて肺が凍えるばかりだった。話が合う人も、けれど次の休みに予定を合わせてどこかに行きたいかと言われたらそうでもなかった。すれ違ったセンスのいい人も、わざわざ振り向いてまで見つめることもなかった。
それでもいいからと言ってくれた寛容な過去の恋人には、会うたびに罪悪感に押し潰されそうだった。
友人だと思っていた相手に好意を示されれば、自己嫌悪で息が詰まった。
可愛らしいラメのマニキュアを乗せながら恋を語り合う同級生たちに囲まれれば、同調圧力に死にたくなった。
わたしの胸はいつでも空っぽだった。打つ胸がないから、ときめきは生まれなかった。ときめきを生む胸の真ん中にある組織がないから、誰もが胸のそばに大切にしまっている恋という感情がわたしに生まれるはずもなかったのだ。

選んで一人でいる空っぽのわたしを、世界は呪う。
行き遅れだとか寂しい独り身だとか煩雑な名前をつけて、わたしを不幸にする。愛されないわたしたちを、愛さないわたしたちを身勝手に笑う。
いいひとに出会ってないから、余裕がないからだなんていうけど、それならばわたしにもそのやり方を教えてほしい。世界のどこにわたしの運命がいるというんだ。どうやって知り合って、どうやってこの胸の真ん中に招き入れたらいい?
他人を入れる余裕のないこの心は、この世界に居場所がない。

例えば触れられるのが嫌だとか、他人と付き合うのが苦手だとか、そういうものでもないのだ。
キスやセックスに対する欲は生まれないけれど、自身に性欲というものが存在していない訳でもないし、不快というほどでもない。抱きしめ合った時の体温は心地よかったし、デートだって楽しかった。
だけどやっぱりわたしの胸には空っぽがいて、穴が空いているから注がれた愛情も滑り落ちてしまうだけなのだ。すり抜ける温度だけを残してやってくる虚無感が、いつも、どうしようもなく耐えられない。
だから一人で生きている。えいやっと思い切ってからは想定以上に身体は楽になった。この先に予想されるたくさんの不安は全部、ひとまずは見ないふりをしている。
ほんの時折寂しくもなるし、どうしようもない劣等感にも駆られるけれど、二人でいる時の虚無よりはずっと居心地がいい。言いようもない不安がよぎる時に縋るように抱きしめられるものがあったらいいのにと思う程度の小さな虚無感だ。
子供の頃は随分持て余したこの空っぽは、もうわたしの身体の一部になっていた。
世界はそれを許さない。世界はわたしに住まう孤独を許さない。
世間を賑わすバンドマンのラブソングも流行りのラブロマンスも、わたしの脇をすり抜けて、わたしじゃない誰かの元に届いていく。恋せよと歌う世界がわたしを着実に殺していく。
きっと少しずつこの空白は広がって、いつかわたしを殺すのだ。

「やあ、千冬」
「え。何しにきたんだよ」
「アニマルセラピー」
「帰れ」
「お菓子あるよ」
「茶ァくらい出すぜ、座れよ!」
「君のそゆとこ好きだよ」

近くまできたのでと訪れたペケJランドの扉をくぐると、千冬がわたしを出迎えた。
千冬はわたしのいとこで、今はペットショップの店長をしている。
かつて彼は髪を明るくしていて、随分やんちゃをしていたらしく心配していた時期もあったが、こうしてキチンと食べていける程度の職につけるようになったのを見るとやはり安心するものだ。
初めにここを訪れたときにそうわたしが漏らすと、お前はカーチャンかよと一通り恥ずかしがった後にありがとなと小さく付け足された。彼のそういうところは実に美点だと思う。
ショーケースの前に立って、ガラス越しに幼い子猫を眺めた。子猫はじいとわたしを見ていた。小さな前足がガラスを懸命に柔らかく叩いている。まんまるの目が乗った綺麗な顔に構って欲しいと書いてあるのがなんとも可愛らしい。

「オマエ、動物飼わねーの?」
「ん? ああ、気持ちはあってもさ、一人暮らしだし。すぐ帰ったり休めたりって会社でもないからね。そういう飼い主じゃあ飼う資格なんてないよ」
「そか。まあそー思うならそうしたほうがいいわ」
「気持ちと現実は違うよねえ」
「責任持とうとしねー飼い主よりいいだろ」
「でしょう。ちゃんと好きだもん」
「……ま、たまにこーやって顔出しにきてもいーぜ」
「お菓子でも持って?」
「ハハ、次はプリンとか食いてーワ」
「しょうがないやつめ」

千冬は実に健気で、義理も堅くいい男だった。これは身内贔屓をしているつもりはない。
実際かつて彼が慕っていた場地くんにも、まるで忠犬のように付き従っては二人でこの東京で悪いことをしては笑い合っていたのだと言う。
わたしは結局彼とは数度しか顔を合わせることもできなかったが、これが我が弟分である可愛い千冬の親分かと思ってまじまじ見た場地圭介という人は、なるほど実に気持ちの良い顔で笑う男だった。もっと長い時間を過ごすことができたなら、きっとわたしもすぐに彼を好きになってしまっただろう。それが叶わなくなってしまったことが、本当に残念でたまらない。

「あ、そーだ。新人入ったって言ったっけ」
「へえ、人雇う余裕できたんだ。よかったね」
「喜ぶとこそこかよ」
「重要だろ」
「まーな。で、羽宮一虎って覚えてるか?」
「……千冬、きみ、とんでもなく度胸あんなあ。それともすっげえヤなやつか?」
「……言いたいことはなんとなく分かるけどさ、ンな顔すんなよ」
「まあ、きみが決めたんならいいけど」
「でさー、ちょうど今日飲みに行こうって話してんだけど」
「君、やっぱりすっげえヤなやつだな?」
「ハハハ」

居酒屋でいとこを待っていたはずが、どえらい美人がきた件。
そんなどこぞの掲示板のスレッド名を模したチープで人気のないウェブ小説みたいな言葉が頭に流れそうな状況に陥るだなんて誰が思おうか。
指定された時間に店につくと予想通り約束の人物はやってきておらず、腹の膨れない申し訳程度のつまみを摘まんでいると、少々遅れるという旨の連絡がわたしのスマホを鳴らした。彼は客商売だし、レジ締めなんかもあるだろう、ここまではすべて想定済みだ。
しかしけれど、まさか噂した人物が彼よりも先に来るだなんて誰が思おうか。
初対面の異性を適当に同じ現場に放り込むだなんて何を考えているのか。いや、きっと彼のことだから恐らく絶対に何も考えていないに違いない。人間はコミュニケーション能力に長けている人間ばかりではないことを少しくらいは想定してほしい。店に入って席を案内されたえらく派手なイケメンが具合悪そうに、そして申し訳なさげに現れたときの互いの感情を、少しは視野に入れてほしい。彼らのペットショップでいつか見かけた生まれてそう経っていない頃の、室内温度を一度下げただけ死んでしまいそうなチワワとそっくりな表情をした青年は、見ていてあまりにかわいそうでたまらなかった。
ぎこちない雰囲気の中始まった飲み会は、ひとまず簡単な自己紹介なんかを終え、唐突すぎる千冬への苦言をいくつか交わしたためか、羽宮君もチワワの時よりはいくらか口元は軽くなったのではないかと思う。

「あー……つか、知ってんの? オレのこと」
「まあね、流石に色々あったみたいだから、その流れで名前くらいは聞いた感じ」
「なんも感じねーの、警戒とか」
「なんも感じないってわけじゃないけど。千冬が君を信じてここに置いたんだし、千冬が受け入れたんならわたしにどうこう言う権利なくない? だって君、今ここで突然殴ってきたりしないでしょ」
「まあ」
「せめて肯定せえ」

 ビールと青年の分のお通しが卓にやってきたのを適当に引き寄せて、軽く乾杯とジョッキを合わせた。ほぼ他人同士でする乾杯は、いつもよりちょっと緊張ぎみだ。

「まあ、君がまだ何か思うとこあんなら、労働に励んで店の売上に貢献したらいいんじゃないの。知らんけど」
「知らんのかい」
「知らんわ、親戚の絆レベルの進行度なんか。わたし自身は普通にしてくれりゃ何でもいいし」
「絆レベル?」
「あ、きみソシャゲとかあんまやらん?」
「やらんけど、何」
「やらんならやらんほうがいいわ」
「なんなんだよ」

千冬から、彼のことはさわり(・・・)くらいならば多少は聞いている。この男は、わたしの愛する千冬から愛を奪った男に違いないのだろう。
けれど彼が、千冬自身がそれを許容しようとしているのなら、それとも別の感情からそれを受け入れたなら、わたしもそれを許容しよう。彼が信じようとしたならわたしも信じる努力をしよう。それがわたしの、彼への愛の証明だ。
手元のジョッキに再度口をつける。ちょっとうまさには欠けるなと思ったが、そもそも格安店のものだし、ちゃんと冷えているから及第点だ。

「千冬はさ、愛に満ちた男なんですよ」
「え、何。もう酔ったか?」
「ちがわい。まあ一旦聞きなって」
「あ、はい」
 
 次いで運ばれてきた枝豆をわたしはわたしと羽宮くんの真ん中に置いた。わたしが二、三と自分の皿に置いたのを見て、彼が同じようにする。普通の子だな、と思った。たぶん彼もただの、普通の子なんだろう。
 
「千冬はさ、世間で言う普通の家庭に生まれてさ、おじさんとおばさんとじいちゃんばあちゃんとかわたしの愛をいっぱい受けて育って、ペケにも愛し愛されて、友達とか、憧れとか好きな人とかをみんな愛しまくって、今も命に愛を注ぐ仕事してるんですよ」
「うん」
「わたしって女はさ、愛ってのがよくわかんなくて、結構迷っちゃうんだけど、千冬って男は受け取るのもあげるのもすごくうまくってさ」
「うん」
「羨ましくてたまんないんだけど、そういういいやつに、幸せってやつになってほしいんだ。それを助けたり、力になれたら、それがわたしの愛なのかなって思うんですよ」
「へえ」

千冬が羨ましいと思っていた。最近ソンケーする人をみつけたんだって報告を受けた時のあの眩しい目を、今でもそれが眼球の奥の方でずっと輝いているのを、今も羨ましいと思っている。
自分のことよりも優先したくなる憧れの人、背中を預けたくなる友達、その言葉なら信頼できると思える仲間。大事にしたいと思って、大事にしようと動いたくなるものたちに出会えた千冬の人生を、得られることのできなかったわたしは、今もただ輝かしい目でずっと見ている。
あの輝きがずっとそこに在ればいい。いい人と出会って、恋とかして、結婚したりして、幸せってやつをわたしに見せつけていてほしい。ただそれだけがわたしの望みだ。

「千冬が幸せになんの邪魔したら、今度はわたしがぶっ飛ばしに行くから。武道くんとか、千冬のこと大好きなやつ、みんな連れて」
「……うん、そうしてくれると助かる」
 
 羽宮くんは、普通の男の子だった。さっきまでチワワだったし、気難しいとか扱いにくいとか常識を知らないとか、そういうところは人よりずっと多くあるのだろう。
 だけど今わたしに頷いた彼は、ほんとうに「そうしてほしい」って言葉を顔面に貼りつけていて、ただ本当にそうしてほしいって思っているように見えた。

「あー……だけどさ、一応、君にヤな目にあってほしいとかじゃないんだ。牽制とかでもなくて」
「うん」
「なんだ、あれだ。千冬とまとめて、なんだかんだみんなハッピーに過ごしてくれんのが一番いいのかなって」
「うん」
「ごめん、何言ってんだって感じだわ」
「いーよ、べつに」
「千冬ももうオトナなのにね、今でもかわいくって、できるだけ大事にしたいんだ」

羽宮くんは、突然愛だなんだとおかしくて恥ずかしいことばかり言う女を笑わなかった。なんとなく聞いて、たまに頷いて、少し黙ったりしていた。指先でまだ食べていない枝豆を弄びながら、それは何かを考えているようにも見えた。
店のBGMが変わった。最近流行りのドラマの主題歌になった曲だった。会社の女性たちが昼休みに今後の展開と人間関係の変化を予想しながら楽し気に話してたのを、横でぼんやり聞いたおぼえがある。

「……なんつーかオマエ、変だけど、多分イイやつなんだろーな。ちょっと千冬に似てる」
「あ、ありがと」
 
 羽宮くんがすこしだけ笑った。彼のピアスが音を立てた。ハンサムの笑顔はきれいだなと思った。それだけだったのが今日もまた、わたしの穴をすこしずつ広げていく。

「なあ」
「ん?」
「愛、ってよくわかんねえけど。そういうの、オレにもできっかな」
「うん、できるよ、きっと」
「そっか」

きっとこの人もまた、わたしとは違う空っぽを飼っているんだろう。
その空っぽにかつては何かが住んでいたのか、いなかったのか、わたしが知る術はない。

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