ハングリー・モンスターは愛を知らない

奪われるばかりの人生だった。
否、何一つも得ることさえできない人生であった。
両親はわたしを見ることはなく、兄はわたしを蔑み、人より遅かった淡い初恋だった恋人は他の女のだらしない色香に負けてわたしを手酷く裏切り、体面ばかりは良かったその男の言葉を信じた同い年の子供たちは、わたしの言葉など聞かないままあっさりわたしを遠巻きにした。
反骨精神と他人に奪われる事のない時間を駆使した人一倍の努力だけが能としてこの両腕に残り、いつしかわたしの人生からは全ての人間たちが消えていった。
孤独は強かった。何も持たぬということは、何かの手助けを得られない代わりに、この人生になんの障害もないことに等しかったから。
失敗は全てわたしのものである代わりに、成功も全てわたしだけのものだ。適度に社会と法を盾に身を護り、味方につけるべきは他人を蹴落とすことばかりに必死な横並びの子供ではなく、下品で醜悪ながらも他人の顔色を見て顔色を窺える大人の方がマシだった。
大人はわたしを等しく子供と認識する。自分より未熟で、後ろ盾もないあわれな子供。自分が守らなければ次の瞬間何があるかわからない小さな子供。
その良心とも庇護欲ともつかぬ感情をわたしは利用し、その代わりにわたしはそれを満たす。謂わばペットや愛玩動物の関係だ。違うのはそこに時折性欲が混じる程度であるとわたしは認識している。
それしか知らなかった。世間が持て囃す恋情は理解ができなかった、憐情だけがいつでもわたしを手を差し伸べてくれたから。

「またやってんの?」

その男がわたしを認識するのは早かった。彼がまだ少年とも青年ともつかぬ頃、どこでわたしのことを知ったのか、ホテルのすぐ前で声をかけてきたのだ。
男は界隈で知らぬ者はいないほどの人物だった。何せ日がな話し相手などいるわけがなく噂ごとに疎いわたしですらも彼らを知っていて、警戒をしていたのだから。
男の名前は灰谷蘭。添えた冠の美しい男はかんばせまで美しいものかと、その時は息を呑んだものだ。
わたしが彼を知っていたように、彼もわたしを知っていた。男に媚びて花を売る少女など飽きるほどいるであろうに、しかし世間は存外わたしを見逃してくれてはいなかったらしい。わたしの生存活動に必要なことを自分の判断で良しとしてやっているのだから、放っておいてくれれば良かろうに。
男はわたしと話したいと言った。誰とも知らぬ男に抱かれたばかりの女にラブホテルの前で声をかけるなんて、今更思っても結構な話である。
わたしはそれを金銭で解決しようとした。わたしの手札の中で、最も信用ができるカードであったからだ。この男と関わりを持ってしまえば、そちらの世界に関わることも同じだ。
悪いことをすることに対する抵抗はありもしなかったが、暴力は懲り懲りだった。ただでさえ、髪をひっぱたり尻を叩かれたりと、日々辟易としていると言うのに。
蘭はわたしが差し出した現金を見て二度ほど大きな目を瞬かせた後、何がおかしいのか大声で笑い飛ばした。そして差し出した現金の元のわたしの手を取り、そのまま六本木の街へと繰り出して行ったのだ。

「ずっと思っていたけれど、あなた暇なの?」
「せっかくオレが会いに来たのに、失礼なヤツ」
「わたし別に、特別あなたと会いたくはないのだけど」
「ひどくね?」
「だって、あなたと会っても益にならないし」

それから蘭は頻繁にわたしの元へ現れるようになった。最初の時以来目立って行動を共にさせられることはないので商売上がったり、と言うことはなく、彼の取り巻きだと言う噂がわたしの「客」にまで届いているわけではないというのが僅かな救いだ。
今のところわたしの中で彼の存在は、毒にも薬にもならない、と言うものが一番近い。

「なに、金払えばいい?」
「あなた、わたしの客になりたいの?」
「あー、そゆモン? じゃあいいや」
「そう、残念だわ。あなたみたいな人なら是非固定になってほしいくらいなのに」
「客じゃヤだっての」

蘭はわたしが男と過ごす時間以外のほとんどに現れた。暇さえあればわたしの元に来ているのではないかと思うほどであった。
図書館で本を読めばわたしの膝を占拠し、夜間に「客」と別れることがあれば次の目的地までバイクで送り届け、こうして食事をすれば向かいの席に座った。どれもこれも、人目に付きにくいところばかりで行われ、例えば半個室以上の席でなければ決して現れることもないところが、わたしが彼を拒否し難いところであった。
どうやら蘭はわたしの何かを好いてそうしているのだと、流石のわたしでも合点がいった。こちらとしては、抱きたいのであれば手順と金額によって応じるつもりであるが、彼が言うにはそういうものではないらしい。
六本木のカリスマとあろうものが青臭い純情をなぞっているだなんて、全く面白いものだ。

「まあ、そのハンサムなお顔だけは見て損はないわね」
「だろ? もっと見ていーよ、オマエなら」
「遠慮するわ。見慣れてしまってもつまらないもの」
「なんだよ、そのままキスの一つでもしてくれてもいーのに」
「じゃあやっぱり見ないようにしなきゃあね」

向かいに座った蘭が呼び鈴を鳴らした。どうやら今日もここで食事をするらしい。注文を取りに来た若い店員が蘭の美しい見目に明らかに動揺するのが可愛くて、滑稽で笑えた。
彼の注文したものを待ってやる義理もないので、目の前の小鉢を黙々と摘んでいく。居酒屋の食事は割高だが、好きなものを好きなように食べられるのがいいところだ。揚げ出し豆腐を箸で半分、さらに半分に割って、口に含む。とろりとした衣や出汁がこぼれ落ちないようにしながら。
蘭はその一連をじいと見ていた。こういう時、蘭はその軽い口を開かない。ただわたしをじいと見て、たまに嬉しそうにしながら、けれどその中のギラギラした欲を隠そうとはしなかった。

「好き」
「そう」
「うん」

彼の何かをわたしは受け取らない。わたしはこの手に何も持たぬと決めている。
柔らかな甘言とほんの少しの知識と手間と若さという日々擦り切れていくブランド。わたしにあるのはそれだけで、だけどわたしの小さな鞄にはそれだけであればいい。どうせわたしには持ちきれないのだから。
最後に飢えてしまうならそれでいい。わたしの死後、わたしの死を嘆く者はいらない。わたしの死を身勝手に悲劇にして泣くような他人はいらない。わたしはわたしの責任だけで持ち得ることのできる道だけを選び、生きて生きて生きて生きて死ぬ。選択肢があり、選ぶ権利がある。それの一体何が不幸だと言うのだ。
善人はわたしを扶けない。ガラスの靴は現れない。悪人はわたしを救わない。ヒーローは来ない。魔法少女はいない。
目の前のこの男も、わたしを救えない。

「わたし、恋人はいらないわ。邪魔だもの」
「うん」
「何も欲しくないの、欲しがったままでいたいのよ」

愛して欲しかった。愛が欲しかった。
この肩を温めて、何もおそろしくないのだと囁く声が欲しかった。
だから決して手に入れないと決めた。わたしは飢えたままの人生の歩み方しかわからなかったから。手に入れてしまえばその重みであっという間に潰れて、呼吸の仕方さえわからなくなってしまうのがわかったから。
失うのが怖いから欲しがらない、だなんて子供じみたことは言わない。そういうものではないのだ。そういうものではないのだ。

「何にもない空っぽじゃないと、わたし、何もできないの」

今日もご飯を食べられているから大丈夫。今日も雨をしのぐ屋根があるからだいじょうぶ。
今日も寒い風を防ぐガラスも壁も塞がっているからだいじょうぶ。
わたしの身体で満足できる人がいるからだいじょうぶ。
何かあった時にも対価を得るお金がお財布にあるからだいじょうぶ。
それだけでいい、そのためなら何でもできる。それだけでいい、ままでいてくれないと困る。

「何にもできなくてもいいのに」
「いやよ、まだ不幸な子供ぶっていたいもの」
「なんで? 楽させてやんぜ?」
「だって、その方がどうしようもなくて、かわいいでしょう?」

きっと蘭の隣はあたたかくて、恐ろしいものなんて一つもなくて、空腹にうなされることもなくて、いつでも肌触りのいい洋服を纏って、凍えることもなく眠れるのだろう。
飢えた獣でしかないわたしは、きっといつしかぶくぶく肥えて、わたしの輪郭を忘れてしまう。
安寧も安心もいらない。いつか傲慢になって胡座をかいてしまうのがわかるから。その姿をわたしは誰よりもよく知っているから。
この男がわたしを愛している。その先はいらない。それだけでいい。
見栄と意地だけで空腹をやり過ごしながら、何も手にすることもできないまま、誰にも奪われることもないまま、わたしはこの生を終えるのだ。

「いちばんかわいいわたしでいるから、できるだけながく、愛していてね」

彼が注文した、この店で一番立派なカットステーキが席に届いた。けれど知っているのだ、それすらも彼の腹を満たすことができないことも、わたしは気づいているのだ。

- 29 -
「卍関全席」肩凝り回避用ページ