海底図書館に花が咲く

図書館という場所は、海底に沈んでいる。
どんな炎天下にひいひいと自転車を漕いだ後でもひんやりしていて、どこか強張ったような沈黙の中をさまざまな人が泳いでいる。
誰もが各々の目的のために本棚の隙間を縫いながらゆらゆら、ゆらゆらと揺れている。わたしもまたその中の一匹で、小魚のわたしは今日は童話を探し求めてやってきていた。昔絵本で母に読み聞かせてもらったおとぎ話はおんなじ話でも本が変わるとちょっとずつ内容が違うことに気づいたのだ。
深海に篭って今日も一人で出版社、表紙、紙の色、お姫様の台詞、継母と実父との会話、描写の色どり、意味もなくその小さな変化を拾い集めていく。こういうのは意味がないのがいいのだ。いつ何を始めてもいいし、何をしてもいいし、いつやめてもいい。
例えばこれを夏休みの自由研究にしてもいいけど、それじゃあきっと言いようもないような楽しく無さが襲ってきてしまうだろう。それに、自由研究は夏美ちゃんと一緒にやろうって夏休みが始める前に約束したから。

図書館にはいろんな人がいる。
勉強をする高校生や大学生、のんびり本を読みにくるおじいちゃん、多分冷房にあたりにきただけの大人、わたしみたいにただ本が好きなこども。誰もがこの深海の底に沈んで、揺れる波を縫いながらゆらゆら、ゆらゆらして、自分の殻に篭っている。

最近のわたしはこの深海で、本以外のちょっとだけ面白いものを見つけた。
以前からこの図書館に通っている、名前も知らない同い年くらいの男の子がいるのだ。猫っぽい目の、インテリっぽいけどけっこうハンサムな黒髪の男の子。
たまあに本棚の隙間ですれ違うその子の春を見つけてしまったのだ。
相手の子は駅前で見た事のある制服の、柔らかい髪の毛の色がキレイな女の子だった。その年上の素敵なお姉さんと並んで本を読んで、たまに彼がバレないように彼女を見ているのを、なんとわたしは見つけてしまったのだ。
キラキラと星が散った黒い目を、ほんのり桜色になった肉の薄そうなほっぺたを、たまに小さい声でこしょこしょと話した時の幸せそうな口角の形を、彼が眠っている彼女にキスしようとしていたのを見て、わたしは胸がとってもむず痒くなってしまったのだ。
本を読むふりをしてたまに二人を見て、そのたびにひどく幸せになった。静かで冷たい深海の底で、誰にも知られないまま咲いた、名前もまだついていない花を見つけた気分だった。

もう小学生も終わろうとしているのに初恋のひとつもまだ見つかっていないわたしからすると、それはとっても新しくて、素敵で、輝いて見えた。
あんまり素敵だったから、約束の日に夏美ちゃんと集まった時に、夏美ちゃんにも教えてあげたかったけど、結局ナイショにした。
きっとあの男の子は、あの花をとても大事にしているから、わたしなんかが勝手に誰かに教えちゃったらダメだと思ったのだ。

夏美ちゃんと自由研究を始めると、一緒に宿題をしよう、勉強を教え合いっこしようよ、今度プールに行こうよってあれよあれよと話が進んで、あっという間に夏休みは転がるように楽しさにまみれて終わっていた。無事に終わった宿題は先生に花丸を貰えたし、夏美ちゃんに覚え方を教えてもらった算数の公式はテストに出た。
新学期が始まってからわたしは学校の図書室という別の海に入り浸るようになり、あの図書館を次に訪れたのはなんだかんだと、卒業式を終えた後だった。すっかり越えてしまった返却期限を司書さんに謝って、ぐるりと広い海を見渡し、ゆらゆら、ゆらゆら本棚の隙間を揺らめいた。
閉館時間まで分厚い本を何冊も重ねてみた。
最近のわたしは、あの童話ではなく推理小説にハマっている。痛快なサスペンスもなかなかいいし、軽快なコメディチックのもお気に入りだ。
夏美ちゃんやユカちゃんがおすすめしてくれた映画にもなった恋愛小説は、嫉妬とかすれ違いとか三角関係のもつれのシーンが多くて、なんだか寂しくなってしまうから、わたしにはちょっと合わなかったみたいだった。それがいいんだよって口々にみんな言っていたけど、わたしにとって恋は、あの少年が大切に抱えていた静かで、澄んでいて、どんな深い海の底でもキラキラと輝くものだったから。

わたしはそれから何度もあの図書館を訪れては探して見たけれど、結局あの花は見つからなかった。
結局そのうちにわたしは家の都合で引っ越すことになってしまい、わたしの沈む場所はまた違う海になった。
肌に触れる水温、潮のにおい、波のゆらめき、通りすがる生き物、そのどれもが違っていたけどきっといずれは馴染んでしまうのだろう。

あの花は今、どうしているだろう。
今もどこか別の深海にひっそり佇んで、まどろみのような密やかな声で囁いているだろうか。あるいは、お日様の下で咲いているだろうか。
いつかまたわたしも、どこかであの花を、あんな花を見つけられたらいい。静かな深海の底の端っこでわたしも尾鰭をゆらめきながら、なんとなくそう思った。

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