「理想の人」

細身のスカートからすらりと伸びた二本の長い脚、座っても尚近くに座る同年代の少女を見下ろせる目元は涼やかで、文庫本を捲る指は細くも長く、風は優雅に彼女の髪を撫ぜる。ただ座っているだけだというのに、彼女の存在は佇んでいるだけでどこか脳の裏に残り香のようですらあった。
ちらり、ちらり、通りすがる人らが自分を認めるのも彼女はもうとっくに慣れっこという様子で、ベンチ脇に置いていたコーヒーを啜ると息をついた。捲っていた詩集はもう中盤まで来ている。もうすぐ待ち人も来るであろうと、栞を挟んで腕時計を眺め見た。
彼女はこういう時間が好きであったので、少し遅刻してくるであろうその人に苛立ちは覚えなかった。どうせ寝坊だとか途中で喧嘩を売られただとか、そういうものだろう。
どこをどうをほっつき歩いてみたらそんなものが各所で特売セールされているのか、彼女はずっと疑問に思っていた。犯罪がない国とは決して言えはしないが、ここはほんのちょっと外で声を荒げただけで警戒されてしまうような国ジャパンであって、間違っても路南浦とかじゃないんだぞ、と。
しかし最近は彼女自身ももうすっかりそういうものにも慣れてきてしまっていた。
そもそも自分だって彼のそういうものに救われたこともあるのだし、結局のところ怪我と非常識ほどの犯罪行為さえしていなければとりあえずはなんでもいいのだ。元気でいてくれたならいい。元気で、笑ってちゃんと待ち合わせ場所に来てくれたら、彼女にとってはなんでもいいのだ。

先程書店で見かけて手に取った本は、一目惚れしただけあって表紙に載せられている海の写真が美しかった。
それをなんとなく眺めながら、この日本でも南国とも場所はどこなんだろうとか、この海は東京のように濁っていないから浸かっていたら足元まですっかり透けてしまうから悪戯がしにくそうだなあとか考えている最中に、突如それを中断するものがあった。

「キミ、かっこいいね」

音を辿ると、男の姿があった。見た限りの情報では、そう年差はない。彼女自身もそれなりに大きいつもりでいたが、おそらくそれを超えるものであろう。優男を絵に描いたような人の良さそうな顔がてっぺんについていて、筋肉が薄いのかひょろりと長い印象を受けた。
目の前に現れた影が待ち人でなかったことにひどく落胆し、彼女はすぐに目線を再び開いた本に落とした。

「待ち合わせ?」
「ええ」
「ずっと本読んでるけど、退屈じゃない? オレも暇なんだ、お話しない?」
「読書を退屈なものと決めつける人とする会話はありませんね」
「辛辣」

彼女は苛立っていたのだ。恋しい人を待つ時間というものは、彼女にとってとても大事なものであったからだ。
本を読んでみたり、携帯でインターネットを覗いてみたり、秒針を追ってみたりしながらも、今日のコーディネイトがミスマッチではなかっただろうかとか、彼はこの色を好むかどうかだとか、今日は何を話そうだとか、彼はどんな格好をしてくるだろうかとか、今頃エマちゃんに叱られながら家を出ているのだろうか、今日の遅刻文句は一体なんだろうかだとか思考する時間は、彼女にとって特別なのだ。
それは愛しい人と約束をし、彼を待つことのできる自分にのみ許された行為であるからだ。
その特別を奪われただけでなく、その上から塗りつぶそうとしている。それは彼女にとって非常に度し難いものであった。
男は彼女の苛立ちに気づくこともなく、なんと、そのまま彼女が座るベンチの隣に腰を下ろしたのだ。
置いていた汗をかいたコーヒーが、零れることこそなかったものの男の膝について、足跡を残していた。さっきまであんなに美味しそうだったのに、二度と口をつけまいと思った。

「そんなに背高いとカレシの方がちっちゃいとかになっちゃわない?」
「そうね、わたしの方がいくらか大きいかと」
「百八十あるんだけど、オレなんかどう? そんな美人でカッコイイんだから、ちっちゃいカレシなんかダサいでしょ。年も近そうだし、ちょうどいいじゃん」
「……あなた、すごくつまんないこと言うんだね」

綺麗な言葉ばかりで綴られていた詩集が嫌な感情をにおいみたいに吸い込んでしまいそうで、彼女はまた本を閉じた。
彼女と待ち人である万次郎とはいくつかの歳の差があった。学生身分は一歳であれ大きなものに感じてしまうのは十分に承知の上で、それであっても万次郎を好きになったつもりであったからだ。

「年齢が、身長差がちょうどいいから、それが世間の理想形だから、わたしの時間を君にあげなきゃいけないの?」

話題が違う。生活が違う。毎日通う学校が違う。受ける授業が違う。友達が違う。見ているテレビ番組が違う。流行りの音楽が違う。
万次郎は真面目に学校に行って勉強をするタイプではないので学校なんかについては感じにくいけれど、ランドセルを背負って自分をもっと下から見上げていた時分のことだって、すぐに思い出せるくらいの歳の少年なのだ。いずれ自らの方が万次郎よりも先に大人になるのは確かなことだった。
女が男を見下ろすように話さなくてはいけないことを、男が女を見上げなくてはいけないことを、彼や自分が憤りを感じるならいい。どうしようもないことをどうしようもなく感じるのはいい。それはいつだって仕方がないことだ。
だけどどうして自分達以外の誰が、なぜ文句をつけようと言うのだ。

「わたしが背が高くてかっこいいっていうなら、それは単にわたしの美点であって、彼の欠点じゃない。年齢差の話をするなら、わたしがちょっぴりオバサンで、彼がちょっぴりコドモなだけ。どちらの美点でもどちらの欠点でもなく、ただの事実。法に触れるとかならともかく、そんなもので一緒に過ごす相手を選ぶ理由になんて、わたしはしたくない」

わたしが自分より小さい彼を好きになった。彼が自分より大きいわたしを選んだ。何も知りもしないまま「おまえたちはまるでちぐはぐだ」なんて思わせるような言葉を言われたくはない。
男が苦虫を噛んだような顔をしていた。泥を塗られたとでも思っているのだろうか、泥を塗られたのは自分の方だと言うのに。

「他者からの見た目と形ばかりの理想でしか自分といることの魅力を語れないだなんて、あなた、カワイソウだね」
「……かわいくねー女」
「思い通りになる従順さだけがカワイイんなら、わたし、カワイさなんていらないよ」

「万次郎、遅いぞ」
「ごめん、めっちゃ寝坊した」
「うん、埋め合わせがとっても楽しみだね」
「ええ……オレ何されんの?」
「フフフ、どうしてやろうかな」

 彼女はようやくやってきた彼を認めるとすぐにその横についた。少し自分より低い位置の目を見下ろすと、万次郎も当然のようにそれに合わせるように彼女を少しだけ見上げた。最近の万次郎はずっと前髪をあげているので、彼女からは彼の白いおでこと生え際がよく見えた。思わず口づけてしまいたくなるから、彼女はこの身長差が好きだった。

「待ってる間、何してた?」
「本読んでた。詩集」
「シシュウ? 縫うやつ?」
「それは三ツ谷くん案件だなあ」
「ちげーの? そのシシュウ、面白かった?」
「うん」
「そっか」
「あとは、ナンパされたかなー」
「は?」
「冗談でーす」
「えー」
「ぶっ飛ばしに行かないでよね。今日はわたしにだけ時間を使ってくれなきゃダメだよ」
「えー」
「えーじゃない。ダメ」
「んー、わかった」

雑誌に書いてあった恋人の理想は十五センチなのだという。ヒールを履いても追い越さないだとか色々理由はあるらしいが、その雑誌には不思議と、背が高い女の子の場合については書かれていなかった。高いところに自分で手が届いてしまって困ることのない女の子のことは書かれていなかったのだ。
誰かが言った理想の人。それにはまず、型にはまった自分自身が必要であったのだ。

「ね」
「ん?」
「わたしって、かっこいい?」
「え。うん、カッケエし、カワイイけど」
「ん、そっか」

彼女は彼の答えに満足し、破顔した。
彼のそういうところがイイのだ。思ったことをすぐに口に出せるところは、時に短所になり得るけれど大きな美点だ。素直すぎるほど真っ直ぐ褒められるのなんて、嬉しいに決まっているのだ。

「理想にハマらなくても、君はとてもかっこよくて、カワイイわたしを骨抜きで従順にさせちゃうくらい魅力的なのになって思って」
「え、なに? めっちゃ褒めるじゃん。なんかあった?」
「フフフ、なんでも」

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