花の匂い

立ち寄ったカフェのベリーのロールケーキを口に含むと、花によく似た香りがした。
花を嗜むお上品な趣味は持っていないけれど、それは季節限定の桜の菓子を食べた時のそれによく似ていたので、これは花の匂いだ、と思ったのだ。同じ品種ではないけれど、植物の果実と花を加工したものだからそれを感じたのだろうか。それともわたしの鼻と舌が出来損ないだから、素敵な香りをみんなまとめてしまうのかもしれない。だけどわたしはそれを、花の匂いだと思った。

カフェに入ったとき、花の人を見た。着色料をこぼしたような明るい桃色の髪に、すみれ色のスーツを着た人であった。
わたしがその姿を見たのは後ろ姿と横顔だけで、けれどそのなんとも春爛漫な配色と、それをどうしてか着こなしてしまえるほど遠目でもわかるほどの美しい顔立ちは、きっと見た者全ての角膜に焼き付いてしまうだろう。
花の人はカウンターでテイクアウトのトールサイズのドリンクを二つ受け取ると、さっさと店を後にしてしまった。
ほとんど通りがかりにもならなかったのでわかるはずもないが、もしかしたらあのやけに形のいいスーツのジャケットの裾からは、花の匂いがするのではないかと思った。
いざ自分の注文の番がきた時に今日は食べると心に決めていたモンブランタルトではなく三種のベリーロールケーキを指差してしまうほど、わたしの角膜に焼き付いたその人は鮮烈であったのだ。

男性の型のスリーピースを着ていたので、きっと男性か、それを着てしまえる女性かのどちらかだろう。多くの場合は前者であると思われるので、一旦わたしはその人を彼と呼ぶことにする。
例えばもし、彼を目の前にしたら、その身に纏った香水の香りがするのだろうか。
男性の香水は女性の物よりは花のような柔らかな香りは少ないであろうが、それであればどんな香りがするだろう。シトラスのような爽やかな香りだろうか、スパイシーな香りがするのだろうか、それとも案外、重厚な大人の香りがしたりするのだろうか。

例えばもし、彼とセックスをしたら、残されたわたしの寝室にはどんな香りが残されるのだろうか。
遺伝子レベルで相性がいい人間の体臭は不快にならないとは噂に聞くけれど、しかし美しい人から香るであろう匂いは、一体どんなものなのだろうか。かつてわたしが付き合ってきた男性たちは、彼と比較してしまえば決して美形と名付けるとは程遠いので、それを確かめる術は未来に期待するしかないのだが。美しい人間というのは、例えば汗をかいたとて美しいのだろうか。

例えばもし彼とキスをしたのなら、口内に残るのは花の香りなのだろうか。
春を模したロールケーキとそっくりな色をした花の人は、口付けまで甘やかなのだろうか。それともなんてことない、煙草の苦味が残されたりするのか。はたまた、あの頭髪であればきっと薬品によって脱色され尽くされているのであろうから、ケミカルな味がするのかもしれない。

妄想、妄想。ただのなんてことのない、ただの妄想だ。
きっとわたしは二度とあの花の人とすれ違う機会もなければ、関わることなどないのだろう。ただの一般庶民、舞台であれば村人C程度の役割でしかないわたしの人生に、花形が立つのはふさわしくない。
だから、ありもしない花の香りを想像する。角膜に焼き付いた花弁のひとひらを、そっと瞬いてしまい込む。
まだ半分ほど皿に残ったロールケーキを、また口に含んだ。
花のような香りがしたけれど、それは花ではなく、ベリーの甘くてすこしすっぱい香りだった。

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